卵焼きこわい
今回は、古典落語の傑作「まんじゅうこわい」を昭和の時代に置き換えてお送りします。
元ネタでは、みんなで怖いものを語り合う中、一人だけ「まんじゅうが怖い」と言い出した男が、実はまんじゅうが大好物で、みんなを騙して食べさせてもらうという、落語の代表的な騙しのテクニックが描かれています。
これを昭和40年代の下町の喫茶店に舞台を移して、「卵焼きこわい」として再話してみました。
高度経済成長期の庶民の暮らしと、変わらぬ人間の愛嬌を、じっくりとお楽しみください。
下町の喫茶店「ミルキー」
昭和45年、東京の下町・浅草。
雷門から少し入った路地裏に、小さな喫茶店「ミルキー」がありました。マスターの佐藤さん(55歳)が一人で切り盛りする、地元の人たちの憩いの場です。
店内にはレコードプレーヤーから流れる津軽海峡冬景色、壁には美空ひばりや石原裕次郎のブロマイド。テーブルには花柄のビニールクロスがかかり、椅子はパイプ椅子という、いかにも昭和らしい内装です。
そんな喫茶店に、毎週土曜日の夕方、決まって集まる男たちがいました。
常連客たち
まず一人目が、田中。
近所の町工場で旋盤工をやっている40歳の男。仕事帰りに必ず「ミルキー」に寄って、コーヒーを飲みながら競馬新聞を読むのが日課です。
田中「マスター、いつものコーヒー」
佐藤「はいよ、田中さん。今日も暑かったねえ」
続いて入ってきたのが、山田。
魚河岸で働く元気な江戸っ子。威勢がよく、声が大きいのが特徴です。
山田「よう、田中!今日も負けたのか?」
田中「うるせえな。まだ結果出てねえよ」
三人目は、鈴木。
近所の電気屋の店主で、几帳面な性格。いつもきちんとした身なりで、丁寧な言葉遣いをします。
鈴木「皆さん、お疲れさまです」
佐藤「鈴木さん、いらっしゃい。いつものホットコーヒーですね」
そして最後にやってきたのが、高橋。
印刷会社で働く痩せた男で、いつもどこか貧乏くさい格好をしています。お金にも困っているようで、いつも一番安いコーヒーしか頼みません。
高橋「こんにちは…」
佐藤「高橋さん、お疲れさま」
怖いものの話
四人が揃ったところで、いつものようにコーヒーを飲みながらの雑談が始まりました。
田中「そういえば、昨日の夜、変な夢見てさあ」
山田「どんな夢だ?」
田中「大きな蛇に追いかけられる夢。起きた時、汗びっしょりだったよ」
鈴木「蛇ですか。確かに怖いですね」
山田「俺は蛇より、高いところが怖いな」
田中「高所恐怖症か?」
山田「そう。梯子に登るのも嫌なんだ」
佐藤「私は雷が怖いですね。昔、近くに雷が落ちたことがあって」
鈴木「私は…お化けです」
山田「お化け?鈴木さんらしいな」
鈴木「子供の頃から、お化け屋敷とか絶対に入れません」
みんなが自分の怖いものを語る中、高橋だけが黙ってコーヒーを飲んでいます。
田中「高橋は?お前の怖いものは何だ?」
高橋「僕ですか…」
山田「何だ?言ってみろよ」
高橋は、恥ずかしそうに俯きながら答えました。
高橋「僕は…卵焼きが怖いんです」
卵焼き恐怖症
一瞬、場が静まり返りました。
田中「卵焼きが怖い?」
山田「何だそりゃ?」
鈴木「卵焼きがですか?」
高橋「はい…あの黄色い色と、ふわふわした食感が…どうしても受け付けないんです」
佐藤「そりゃまた珍しい」
高橋「子供の頃、母親の卵焼きを食べて、お腹を壊したことがあって…それ以来、見るだけで気分が悪くなるんです」
田中「へえ…」
高橋「だから、お弁当屋さんに行っても、卵焼きが入ってると買えません」
山田「困るだろうな、それじゃあ」
高橋「はい…定食屋さんでも、卵焼きが付いてくると、全部残しちゃいます」
同情する仲間たち
高橋の告白に、みんなは同情的になりました。
鈴木「それは大変ですね」
田中「卵焼きなんて、どこにでもあるもんな」
山田「そうだ。俺たちも気をつけてやらなきゃ」
佐藤「うちでも、高橋さんには卵焼き出さないようにしますよ」
高橋「ありがとうございます…皆さん、優しくて」
こうして、高橋の卵焼き恐怖症は、「ミルキー」の常連たちの間で周知されることになりました。
しばらく経って
それから2週間ほど経ったある土曜日。
いつものように四人が集まっていると、佐藤マスターが奥から何かを持ってきました。
佐藤「皆さん、実は今日、家内が卵焼きを作りすぎちゃって」
手には、大きなタッパーに入った卵焼きがありました。きれいな黄色で、ふんわりと美味しそうです。
佐藤「良かったら、お茶うけにどうですか?」
田中「うわあ、美味そう」
山田「佐藤さんの奥さんの卵焼きは絶品だからな」
鈴木「ありがたくいただきます」
三人は喜んで卵焼きに手を伸ばします。しかし、高橋だけは顔を青くして固まっていました。
高橋「あ…あの…」
高橋の反応
佐藤「あ、高橋さん、ごめんなさい。うっかりしてました」
高橋「い、いえ…大丈夫です」
しかし、高橋の顔は明らかに嫌そうです。
田中「高橋、大丈夫か?顔色悪いぞ」
高橋「ちょっと…見てるだけで…」
山田「おい、そんなに嫌なのか?」
高橋「すみません…本当にダメなんです」
鈴木「では、私たちが全部いただきましょう」
高橋「お願いします…僕の分まで、どうぞ」
美味しそうに食べる三人
三人は、遠慮なく卵焼きを食べ始めました。
田中「うまい!さすが佐藤さんの奥さん」
山田「この甘さ加減がたまらねえ」
鈴木「上品な味付けですね」
佐藤「ありがとうございます。砂糖と醤油のバランスにこだわってるんです」
三人が美味しそうに食べる様子を、高橋は複雑な表情で見ていました。なぜか、その目には羨ましそうな色が浮かんでいます。
高橋「…美味しそうですね」
田中「そりゃそうさ。こんな美味い卵焼き、なかなか食えないぞ」
高橋「そうですか…」
微妙な変化
それから何度か、似たような場面がありました。
誰かが卵料理を持ち込むたびに、高橋は「怖い」と言って遠ざかりますが、みんなが食べている様子をじっと見つめています。
ある日の田中の観察。
田中「高橋、最近気づいたんだけど…」
山田「何だ?」
田中「あいつ、卵焼きが怖いって言う割に、みんなが食べてる時、すげえ見てるよな」
山田「そういえば…」
鈴木「確かに、嫌なものなら見ないはずですよね」
三人は、だんだん高橋の行動に疑問を持ち始めました。
疑惑の芽生え
ある日、山田が面白い提案をしました。
山田「なあ、試しに高橋の前で、めちゃくちゃ美味そうに卵焼き食ってみないか?」
田中「どういうことだ?」
山田「本当に嫌いなら、見てられないはずだろ?でも、もし好きなら…」
鈴木「なるほど、反応を見てみようということですね」
佐藤「面白そうですね」
翌日、四人で相談して、わざと高橋の前で卵焼きを大げさに褒めながら食べてみることにしました。
実験開始
土曜日、佐藤マスターが特製の卵焼きを用意しました。
佐藤「今日の卵焼きは特別ですよ。卵は築地の最高級品、砂糖は沖縄の黒糖を使いました」
田中「おお、そりゃ楽しみだ」
山田「俺、卵焼きで一番好きなのは、この甘じょっぱい味なんだよな」
鈴木「私も卵焼きは大好物です」
三人は、わざと高橋にも聞こえるように話します。
高橋「あ…その…やっぱり僕は…」
佐藤「高橋さんは見てるだけでも嫌でしょうから、奥の席に移りますか?」
高橋「いえ、大丈夫です。慣れましたから」
観察
三人は、高橋の様子を注意深く観察しながら卵焼きを食べ始めました。
田中「うわあ、この卵焼き、今まで食った中で一番うまいんじゃないか?」
山田「本当だ。口の中でとろけるぜ」
鈴木「この絶妙な甘さ…たまりませんね」
高橋は、確かに「嫌そうな」顔をしています。しかし、よく見ると、その目は卵焼きに釘付けです。そして、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえました。
田中「(おい、見ろよ)」
山田「(あいつ、よだれ出てるぞ)」
鈴木「(間違いありませんね)」
決定的瞬間
そして決定的な瞬間が訪れました。
佐藤「あ、一切れ落ちちゃった」
卵焼きの一切れが、床に落ちそうになったのを、高橋が慌てて手を伸ばして受け止めたのです。
高橋「あ…」
田中「高橋…」
山田「お前、今…」
鈴木「卵焼きを助けましたね」
高橋の顔が真っ赤になりました。
佐藤「高橋さん、もしかして…」
高橋「ち、違います!ただ、もったいないと思って…」
田中「嫌いなもの、助けるか?」
白状
観念した高橋は、ついに本当のことを話しました。
高橋「…分かりました。実は…卵焼きが大好きなんです」
三人「やっぱり!」
高橋「でも、お金がなくて、いつもコーヒー一杯しか頼めないから…」
佐藤「それで、みんなに同情してもらって…」
高橋「はい…卵焼きをもらおうと思って…」
山田「お前なあ…」
田中「まったく、憎めない奴だな」
鈴木「でも、正直に言ってくれて良かったです」
仲間の温かさ
しかし、三人は高橋を責めませんでした。
佐藤「高橋さん、今度から正直に言ってくださいよ」
田中「そうだ。卵焼きが食いたいなら、食いたいって言えばいいじゃないか」
山田「俺たちだって、たまには奢ってやるよ」
鈴木「そうです。みんな仲間じゃないですか」
高橋「皆さん…ありがとうございます」
佐藤「じゃあ、今日は特別サービスで、卵焼き定食をお出ししましょう」
高橋「本当ですか!?」
みんなで卵焼き
その日は、みんなで卵焼きを囲んで楽しい時間を過ごしました。
高橋「やっぱり卵焼きは最高です」
田中「お前、すげえ嬉しそうな顔してるな」
山田「嘘ついてた時より、ずっといい顔だ」
鈴木「正直が一番ですね」
佐藤「高橋さんの本当に怖いものって何ですか?」
高橋「本当に怖いもの…それは…」
みんな「何?」
高橋は、少し恥ずかしそうに答えました。
高橋「月末の家計簿です」
一同大笑い。昭和の下町の喫茶店に、温かい笑い声が響きました。
まとめ
古典落語「まんじゅうこわい」を昭和の喫茶店に置き換えてみましたが、いかがでしたでしょうか。まんじゅうを卵焼きに変え、舞台を昭和の下町にすることで、より庶民的で親しみやすい雰囲気を演出してみました。
高度経済成長期の人情味溢れる時代背景も活かしながら、原作の騙しのテクニックと人間の愛嬌はそのまま残しました。
最後のオチも、昭和らしい生活感のある「月末の家計簿」にしてみました。
あの時代の、ゆったりとした時間の流れと人と人とのつながりの温かさが伝われば幸いです。


