粗忽長屋 落語|あらすじ・オチ「抱いてる俺は誰だろう」意味を完全解説
粗忽長屋(そこつながや) は、そそっかしい長屋の住人同士の究極の勘違いを描いた古典落語の傑作。行き倒れを自分の死体だと信じ込み、「抱いてる俺は誰だろう」という哲学的なシュールさが漂うオチが印象的な滑稽噺です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 演目名 | 粗忽長屋(そこつながや) |
| ジャンル | 古典落語・滑稽噺・長屋噺 |
| 主人公 | 八五郎・熊五郎(そそっかしい長屋住人) |
| 舞台 | 浅草・雷門付近 |
| オチ | 「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」 |
| 見どころ | 究極の勘違い、シュールなオチ |
3行でわかるあらすじ
そそっかしい八五郎が浅草で行き倒れを発見し、隣人の熊五郎の死体だと勘違いして本人に知らせる。
熊五郎も昨夜吉原で飲んで記憶が曖昧なため、八五郎の話を信じて自分が死んだと思い込んでしまう。
現場で死体を抱いた熊五郎が「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」と困惑してオチとなる。
10行でわかるあらすじとオチ
そそっかしい八五郎と熊五郎は隣同士の兄弟分で、同じようにうっかり者の長屋住人である。
八五郎が浅草観音にお参りして雷門を出た所で、行き倒れの人だかりを発見する。
菰をめくって見ると熊五郎だと思い込み、世話人の話も聞かずに長屋の熊五郎の家に駆け込む。
八五郎は熊五郎に「お前は昨日浅草で死んでいる」と告げるが、熊五郎は死んだ心持ちがしないと困惑する。
熊五郎は昨夜吉原をひやかし馬道で飲んで酔っ払い、その後の記憶が曖昧だと話す。
八五郎は「そそっかしいから悪い酒に当たって死んだのも気づかずに帰って来た」と説得する。
熊五郎も「そう言われると今朝は気持ちがよくない」と半信半疑ながら信じ始める。
八五郎は熊五郎を引っ張って現場に戻り、野次馬をかき分けて「本人を連れてきた」と宣言する。
熊五郎も死体を見て「ああ俺だ、なんて浅ましい姿になっちまった」と納得してしまう。
世話人があきれる中、熊五郎が死体を抱きながら「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」とオチをつける。
解説
粗忽長屋は「粗忽(そこつ)」すなわち「そそっかしさ」をテーマにした古典落語の代表作である。
江戸時代の長屋に住む庶民の人間関係と、思い込みの激しさを滑稽に描いた作品として親しまれている。
この作品の笑いの核心は、二人の登場人物がともに思い込みが激しく、客観的な判断力を欠いていることにある。
八五郎は人相の似た別人の死体を熊五郎だと勘違いし、熊五郎も酒に酔った記憶の曖昧さから相手の話を信じてしまう。
オチの「抱いてる俺は誰だろう」は哲学的でシュールな響きを持ち、現代でも印象に残る名台詞として知られる。
この作品は江戸時代の庶民文化、特に長屋の共同体意識と吉原などの遊郭文化を背景に描かれた社会風刺でもある。
あらすじ
同じ長屋に住むそそっかしい八五郎と熊五郎は隣同士で兄弟分。
ある日、八五郎は浅草観音に参り、雷門を出た所で黒山の人だかりにぶつかる。
大勢の野次馬の股ぐらの間をくぐって見ると、これが行き倒れで、菰(こも)をめくって見ると熊五郎だ。「熊の野郎、今朝寄った時にはぼんやりしていて、ここで行き倒れているのも気がつかねえんだ」と、世話人が「この人は昨日の夜からここに倒れているんだ」と言っても納得しない。
ついには本人をここに連れて来て死骸を見せて引き取らせると言い出し、世話人の言うことも聞かずに、長屋の熊五郎の家に行く。
熊五郎にお前は昨日、浅草で死んでいるというが、熊は死んだ心持ちがしないという。
昨夜のことを聞くと仲(吉原)をひやかし、馬道で飲んで酔っ払い、その先はどうやって長屋に帰ったか分からないという。
八さん 「お前はそそっかしいから悪い酒に当たって死んだのも気づかずに帰って来ちまったんだ」
熊さん 「そう言われてみると、今朝はどうも気持ちがよくねえ」
八五郎は半信半疑の熊さんを引っ張って死骸を引き取りに現場に戻る。
野次馬をかき分けて、
八さん 「おう、ごめんよ、ごめんよ、行き倒れの本人を連れて来たんだ、どいてくれ、どいてくれ」、行き倒れを見て
熊さん 「ああ俺だ、なんて浅ましい姿になっっちまったんだ」、なんて調子だ。
あきれ返る世話人を尻目に八さんは本人が引き取って行くと言って熊さんに死骸を抱かせる。
熊さん 「兄貴、わからねえことが出来ちまった」
八さん 「何が」
熊さん 「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」
落語用語解説
- 粗忽(そこつ) – そそっかしいこと、うっかりすること。江戸落語では重要なキャラクター設定として多用される。
- 行き倒れ – 路上で倒れて死んでいる人。江戸時代は町奉行所が身元調査を行った。
- 菰(こも) – むしろの一種。行き倒れの遺体にかけられた。
- 馬道 – 浅草から吉原に続く道。多くの居酒屋や茶屋があった。
- 仲(なか) – 吉原遊郭のこと。正式には「新吉原」。
よくある質問(FAQ)
Q: なぜ熊五郎は自分が死んだと信じてしまったのですか?
A: 昨夜吉原で飲んで酔っ払い、帰宅した記憶が曖昧だったため、八五郎の「悪い酒に当たって死んだのも気づかずに帰ってきた」という説明を信じてしまいました。
Q: 「抱いてる俺は誰だろう」というオチの意味は?
A: 死体を抱いているのが自分なら、抱かれている死体も自分のはず。では今ここにいる自分は誰なのか?という哲学的な矛盾を表現したシュールなオチです。
Q: この噺は実話に基づいているのですか?
A: 実話ではありませんが、江戸時代の長屋では顔の似た人が近所に住んでいることも多く、人違いが起きやすい環境でした。
名演者による口演
- 柳家小さん(五代目) – 人間国宝。熊五郎の困惑と八五郎のせっかちさを絶妙に演じ分けました。
- 古今亭志ん生(五代目) – 昭和の名人。シュールなオチを独特の間で演じました。
- 立川談志 – 現代落語の革新者。哲学的な解釈を加えた独自の演出で知られます。
関連する落語演目
同じく「粗忽・勘違い」がテーマの古典落語
長屋が舞台の古典落語
酒・酔っ払いがテーマの古典落語
この噺の魅力と現代への示唆
「粗忽長屋」は、思い込みの激しさと客観性の欠如を笑いに変えた古典落語の傑作です。八五郎と熊五郎という二人のそそっかしい男の掛け合いが、現実離れした状況を生み出します。
特に「抱いてる俺は誰だろう」というオチは、単なる勘違いを超えた哲学的な問いかけとして、現代でも多くの人の心に残ります。自分のアイデンティティとは何か、という深いテーマを笑いの中に潜ませた名作です。








