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【古典落語】蜀山人 あらすじ・オチ・解説 | 江戸の天才文人が狂歌で人生を切る!知的エンターテイメントの傑作

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話芸の殿堂-古典落語-蜀山人
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蜀山人

3行でわかるあらすじ

江戸時代の文人で幕府の御家人でもあった蜀山人(大田南畝)の生涯を狂歌と共に辿る教養落語。
出世街道を歩みながら各地を転勤し、その土地土地で機知に富んだ狂歌を詠み続ける。
最後は文政6年に75歳で大往生を遂げ、辞世の歌で人生を締めくくる。

10行でわかるあらすじとオチ

蜀山人(大田南畝)は江戸時代の文人で幕府の御家人として仕える。
秋田藩の高殿落成式で三味線堀を見下ろす狂歌を詠み、学問吟味では首席合格。
大坂銅座赴任時には近江八景を詠み込んだ歌で駕籠代をただにする。
三条大橋の継ぎはぎを「色紙短冊」と洒落、伊勢参りでは雷を「古なる光る」と表現。
長崎奉行所では敦盛そばで平家物語をもじり、鯖腐らかし岩の由来を狂歌にする。
江戸に戻り永代橋落下事件を「永代と かけたる橋は落ちにけり」と詠む。
深大寺そばを宣伝し、更科そばは高いと皮肉り、吉原で清元「北州」を作詞。
新宿で「往きかかる 来かかる足に水かかる」の回文で喧嘩を仲裁。
八百善や芸者小万を愛し、食通としても知られる。
文政6年に75歳で逝去、辞世は「今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」。

解説

「蜀山人」は、実在の江戸時代の文人・大田南畝の生涯を描いた教養落語です。通常の落語とは異なり、史実に基づいた人物伝記の形を取りながら、蜀山人が残した数々の名作狂歌を紹介する知的エンターテイメントとなっています。

この噺の最大の魅力は、蜀山人の機知に富んだ狂歌の数々です。近江八景を詠み込んで駕籠代をただにしたり、継ぎはぎだらけの三条大橋を「色紙短冊」と洒落たり、雷を「古なる光る」と表現するなど、言葉遊びの妙技が随所に光ります。特に「往きかかる 来かかる足に水かかる 足軽いかる おかるこわがる」の回文は、蜀山人の言語センスの高さを示す代表作として知られています。

また、江戸時代の文化や風俗を詳しく描写している点も特徴的です。永代橋の落下事件、深大寺そばや更科そば、料理屋八百善、吉原の芸者など、当時の江戸の生活が生き生きと描かれており、落語を通じて江戸文化を学ぶことができる貴重な作品でもあります。

あらすじ

大田南畝、別名を蜀山人、狂名を四方赤良だが、れっきとした幕府の御家人。
天明3年(1783)、三味線堀に隣接する秋田藩佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建った。
言祝ぎの一員として招待された蜀山人は、「三階に三味線堀を 三下り二上り 見れどあきたらぬ景」と祝った。

寛政6年(1794)2月、湯島聖堂で行われた学問吟味では悠々と首席(御家人中)で合格し、銀10枚を与えられた。
同8年、48歳で御徒から支配勘定へと出世した。
同12年、江戸城内の竹橋の倉庫に保管されていた勘定所の書類を整理する御勘定所諸帳面取調御用の任につく。
次から次に出てくる書類の山に、「五月雨の 日もたけ橋の 反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んだ。

享和元年(1801)、大坂の銅座に赴任のため東海道を上って、早や近江八景の瀬田の唐橋あたりに来ると、駕籠屋が来て「蜀山人先生でしょ、近江八景を全部詠み込んでくれたら、ただで乗せますよ」、蜀山人「乗せたから 先は粟津か ただの駕籠 ひら石山や 馳せらしてみい」と、八景を見事に詠み込んだ。

逢坂山を越えて三条大橋に着いた。
さぞ立派な橋と思いきや、橋は古くなりあちこち継ぎはぎだらけ。
そこで先生、「来てみれば さすが都は歌どころ 橋の上にも 色紙短冊」。
お伊勢参りの土産に伊勢の壺屋の煙草入れを買った。
帰りに夕立にあい、「夕立や 伊勢の壺屋の煙草入れ 古なる光る強い紙なり(雷)」。
伊勢神宮の神域では獣の皮の持込みが禁じられていたので、紙で皮に似せて作った壺屋の煙草入れが伊勢参りの土産として人気があった。

文化元年(1804)、長崎奉行所支配勘定方を命ぜられた蜀山人先生は、山陽道を西に向かった。
一の谷の古戦場近く、平敦盛の墓のそばの"敦盛そば屋"で、「呼び止めて 年も二八のあつもりを 打って出したる 熊谷のそば」とはさすがに上手い。
美味いか? 敦盛は二八ではないが、二八そばのあつもり(敦盛そば・熱盛そば)ということだろう。

翌年(文化2年)に長崎で浦上街道を時津に遊んだ時、今にも落ちてきそうな頭上の"鯖(さば)くさらかし岩"を眺めた。
鯖「腐らかし」で、浦上街道を長崎まで行く魚売りが、この岩の下まで来た時、岩が落ちてこないか心配して、落ちた後に通ろうと思い待っていたら、売り物の鯖が腐ってしまったという話を聞いて、「岩角に 立ちぬる岩を見つつおれば に(荷)なえる魚も さは朽(くち)ぬべし」と詠んだので、なお一層この岩が有名になったという。

その年の秋、長崎奉行所勤めを終えて江戸へ帰る蜀山人先生。「故郷へ 飾る錦は 一歳(いっさい)を ヘルヘトワンの羽織一枚」、勘定方は役得の多い職で一財産を成す人もいる中、蜀山人先生が土産にしたのは南蛮渡りのラシャの羽織ただ一枚とは眉唾物では?

江戸へ帰った蜀山人先生は文化4年(1807)の永代橋の落下を目撃して、「永代と かけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」

文化5年(1808)、堤防の状態などを調査する玉川(多摩川)巡視の役目に就く。
谷保天満宮を参拝して、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼな天神」、神無月は出雲の国へ行くべきなのに、賑やかな目白で出開帳とは金儲け主義で頂けないとの皮肉か。
これが野暮天の由来となったという。
また、巡視した折に深大寺に止宿して深大寺そばを広く世に宣伝してからは、江戸の人士とりわけ武蔵野を散策する文人墨客に愛され、それが深大寺そばの名を高めたことになったという。
一方、永坂の更級蕎麦は、「更科のそばはよけれど高いなり もりを眺めて二度とこんこん」と、皮肉っている。「高稲荷」は当時の更科蕎麦の背後にあった。
蜀山人でも高いというくらいだから、庶民には手が出なかったのでは。

吉原でよく遊んだ蜀山人は、文政元年(1818)に「北州」を遊女部屋で?作詞し、もとは名妓だった川口直が清元の節をつけた。
廓の内情に精通し、吉原の年中行事に四季折々の風物をうまくからませ、いろんな故事来歴や古歌などを引用した、「音で描いた吉原の風物詩」ともいうべき美しい描写曲で、その優雅腕麗さは清元曲中随一という。【YouTube】
この年古稀を迎えた蜀山人は登城の途中の神田橋でつまづいて転んでしまった。
それが衰えの始まりで、以来健康がすぐれなかった。

文政3年(1820)、新宿の熊野神社に水鉢を奉納する。
参拝の帰りの道すがら、店の前に水を撒いていた女中のお軽があやまって通りかかった足軽の足にかけてしまった。
お軽は謝るが、足軽の怒りはおさまらない。
見かねた蜀山人先生、「往きかかる 来かかる足に水かかる 足軽いかる おかるこわがる」と、足軽の怒りを和らげた。

食通、グルメの蜀山人先生は料理屋の八百善がお気に入りで、常連客の一人だった。
「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者はおかつ 料理八百善」と、詠んでいる。
傾城のかのさん、芸者のおかつさんは、どこの遊郭、色街の女性だったのだろうか。

また、「詩は詩仏 書は米庵に狂歌乃公(おれ) 芸者小万に料理八百善」というのもある。
よほど八百善が気に入っていたようだ。
芸者の小万は堀(山谷堀河口)の花街の芸者。
十六の時に船宿武蔵屋から座敷に出、その憂いを含む美貌と、酒が入った時に出る巻き舌の火のような啖呵で、当代随一といわれた芸者。
その気風のよさには酒癖の悪い武芸自慢の侍も、大商人も大名も、むろん蜀山人先生も兜を脱いだようだ。

文政6年(1823)4月、自宅で深い眠りから覚めずについに息を引き取った。
大往生というべきだろう。
辞世は「生き過ぎて七十五年食いつぶす 限り知られぬ天地(あめつち)の恩」、
「今までは人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」とも。

墓は文京区白山の本念寺にある。
蜀山人の一席


落語用語解説

  • 狂歌 – 和歌の形式(五七五七七)を使った滑稽な歌。江戸時代後期に大流行し、蜀山人はその第一人者でした。
  • 四方赤良(よものあから) – 蜀山人の狂歌名。「世の中をしゃれのめす」という意味が込められています。
  • 近江八景 – 琵琶湖周辺の8つの名所。石山秋月、勢多夕照、粟津晴嵐、唐崎夜雨、堅田落雁、比良暮雪、三井晩鐘、矢橋帰帆。
  • 永代橋 – 隅田川に架かる橋。文化4年(1807)に祭礼の人出で落下し、多くの死者を出した大事故があった。
  • 八百善 – 江戸時代から続く料亭。蜀山人が贔屓にした名店として知られる。

よくある質問(FAQ)

Q: 蜀山人は実在の人物ですか?
A: はい、大田南畝(1749-1823)は実在の江戸時代後期の文人・狂歌師です。幕府の御家人として勤めながら、狂歌や戯作で活躍しました。

Q: 「往きかかる 来かかる足に水かかる」の回文とは何ですか?
A: これは上から読んでも下から読んでも同じ音になる「回文」で、蜀山人の言語センスを示す代表作です。

Q: 辞世の歌「俺が死ぬとはこいつはたまらん」の意味は?
A: 今まで人の死を他人事と思っていたのに、自分が死ぬとは驚いた、という最後まで洒落を忘れない蜀山人らしい辞世の句です。

名演者による口演

  • 三遊亭圓生(六代目) – 昭和の名人。蜀山人の知的な魅力を格調高く演じました。
  • 古今亭志ん朝(三代目) – 狂歌の数々を軽妙洒脱に語りました。
  • 柳家小三治(十代目) – 人間国宝。蜀山人の人物像を深く掘り下げた演技で知られました。

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この噺の魅力と現代への示唆

「蜀山人」は、江戸時代の文人・大田南畝の生涯を狂歌と共に辿る教養落語の傑作です。通常の落語とは異なり、史実に基づいた人物伝記の形を取りながら、蜀山人が残した数々の名作狂歌を紹介する知的エンターテイメントとなっています。

近江八景を詠み込んで駕籠代をただにしたり、永代橋の落下を詠んだりと、機知に富んだ狂歌の数々が見どころです。

最後の辞世「俺が死ぬとはこいつはたまらん」は、最後まで洒落を忘れない蜀山人の人柄を象徴しています。

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