九尾の狐
3行でわかるあらすじ
中国から渡来した九尾の狐が玉藻の前として鳥羽院に仕え、院を病気にするが安倍泰親によって正体を暴かれ逃亡する。
三浦介義明らが鳥羽院から九尾の狐退治を命じられ、江戸市中をくまなく捜し回る。
義明が床屋で吉原の花魁・喜瀬川が古狐だという話を聞き、「物日前には尻尾を出すだろう」という言葉遊びでオチがつく。
10行でわかるあらすじとオチ
白面金毛九尾の狐は中国殷王朝で妲己として国を傾け、唐から日本に渡来した伝説の妖怪。
元北面の武士だった坂部庄司行綱が、帝の命令で狐を射ようとして弓弦が切れて失態、罷免される。
行綱夫婦が清水観音参詣の帰りに女の子を拾い、藻女(みくずめ)と名づけて育てる。
藻女は和歌や舞いの才能で鳥羽院の女官となり、玉藻の前という名を貰い院の寵愛を受ける。
やがて鳥羽院が原因不明の病気にかかり、陰陽頭の安倍泰親が玉藻の前を怪しんで調伏を行う。
玉藻の前は結局九尾の狐の正体を現わして東の方へ飛び去り、鳥羽院は快復する。
院は三浦介義明、上総介広常、千葉介常胤に九尾の狐退治を命じ、三人は江戸市中をくまなく捜索する。
義明が床屋で町人から吉原の三河屋の花魁・喜瀬川が古狐だという話を聞き、玉藻の前ではないかと問い詰める。
町人が「普段は尻尾を見たことはないが、物日前には尻尾を出すだろうという評判」と答えてオチとなる。
解説
「九尾の狐」は古典落語の中でも異色の存在で、壮大な史学的・神話的背景と江戸の市井の日常を見事に結びつけた傑作です。
物語の前半は中国古代から鳥羽院時代までの壮大な歴史絵巻であり、特に玉藻の前伝説は日本中世文学の重要な素材です。
一方で物語の後半は江戸時代の市井の生活に急転直下し、床屋での何気ない会話が展開されます。
この構成は「ギャップ落語」の先駆とも言える手法で、聴衆の期待を見事に裏切る構成となっています。
オチの「物日前には尻尾を出すだろう」は、物日(祭日)の前に男性客が増えるため遊女が尻尾(本性)を出す(忙しくなる)という意味と、狐が尻尾を出すという意味をかけた高度な言葉遊びです。
この作品は古典落語の中でも特に長編の部類に属し、演じられる機会が少ない名作でもあります。
あらすじ
白面金毛九尾の狐は、中国殷王朝では美女、妲己に化けて国を傾け、その後の諸王朝でも帝王をたぶらかし、唐より帰朝する吉備真備の船に若藻という少女に化けて乗り込み日本に渡って来た。
それから四百年近くの歳月が流れる。
もとは北面の武士だった坂部庄司行綱は、帝の命令で狐を射ろうとして弓弦が切れて射ち損なうという失態を犯して罷免され、今は病弱な妻と二人暮らし。
妻の回復祈願に清水観音参詣の帰りに可愛い女の子を拾う。
子に恵まれない行綱夫婦はその子に藻女(みくずめ)と名づけて大事にいつくしんで育てて行く。
やがて藻女は和歌や舞いの才能を認められて鳥羽院の御代に女官となって参内するようになる。
美貌で才媛な藻女は鳥羽院の寵愛を受け、玉藻の前という名をもらう。
そのうちに鳥羽院が原因不明の病にかかる。
朝廷の医師らにも手の施しようもなく、高名な僧侶が加持祈祷をすれども一向に回復の兆しはない。
日頃から易占によって、玉藻の前の様子を怪しいと睨んでいた陰陽頭の安倍泰親は調伏の法で真言を唱えると玉藻の前はついに九尾の狐の正体を現わして、東の方へ飛び去った。
玉藻の前の呪縛から解き放たれた鳥羽院は三浦介義明、上総介広常、千葉介常胤に九尾の狐退治を命じる。
江戸市中に九尾の狐が出るとの噂を聞いた三人は、市中をくまなく捜し回る。
浅草観音に九尾の狐退治の祈願をした三浦介義明は、馬道の床屋でぼうぼうに伸びた髭をあたってもらおうと入ると、中の客が、「・・・三河屋のあの女は海千山千、陸にも千年、三千年の年数を経た古狐だ・・・」、これを耳にはさんだ義明は髭なんかそっちのけで、
義明 「これ、町人、その古狐という女は何者じゃ、どこにおるのじゃ」
町人 「へい、吉原の三河屋の女でさぁ」
義明 「どのような風体で、どんな面相をしている?」
町人 「顔は真っ白で、綺麗な着物を着て狐のようにおつにすましちゃいやすが、金で縛られた駕籠の鳥、檻の中の狐でさぁ」、さては九尾の狐かと身を乗り出して、
義明 「その女の名は玉藻と申すであろう」
町人 「いや、喜瀬川っていう花魁で」
義明 「そうか、むろん名は変えておるでろう。それでは尻尾はありはしないか?」
町人 「へえ、普段は見たことありませんが、物日(紋日)前には尻尾を出すだろうという評判でございます」
落語用語解説
この噺をより深く理解するための用語解説です。
- 九尾の狐(きゅうびのきつね) – 九本の尻尾を持つ伝説の妖狐。中国や日本の神話に登場し、千年以上生きた狐が強大な霊力を持つとされます。
- 白面金毛(はくめんきんもう) – 九尾の狐の異名。白い顔と金色の毛を持つという特徴を表しています。
- 妲己(だっき) – 中国殷王朝最後の王・紂王の寵姫。実は九尾の狐が化けた姿で、国を滅ぼしたとされる伝説の悪女です。
- 吉備真備(きびのまきび) – 奈良時代の学者・政治家。唐に留学して帰国した実在の人物で、様々な伝説の題材となりました。
- 玉藻の前(たまものまえ) – 鳥羽天皇に仕えた美女で、実は九尾の狐の化身。日本三大悪妖怪の一つに数えられます。
- 鳥羽院(とばいん) – 平安時代後期の第74代天皇・鳥羽天皇。院政を敷いた上皇としても知られます。
- 安倍泰親(あべのやすちか) – 平安時代の陰陽師。安倍晴明の子孫で、玉藻の前の正体を見破ったとされます。
- 三浦介義明(みうらのすけよしあき) – 平安時代末期の武将。三浦一族の棟梁で、源頼朝に仕えました。
- 物日(ものび) – 祭日や祝日のこと。江戸時代の遊廓では物日の前に客が増えるため、遊女が忙しくなりました。
- 尻尾を出す(しっぽをだす) – 隠していた本性を現すという意味の慣用句。この噺では狐の尻尾と遊女の本性の二重の意味をかけています。
よくある質問(FAQ)
Q: この噺の前半部分は史実ですか?
A: 玉藻の前伝説は日本の古典文学や説話に登場する有名な伝説ですが、史実ではありません。ただし鳥羽天皇や安倍泰親は実在の人物で、伝説に実在の人物を織り交ぜた物語構成になっています。
Q: なぜこんなに壮大な話が遊廓オチになるのですか?
A: これが「九尾の狐」の最大の面白さです。中国古代から始まる壮大な妖怪退治の物語が、最後は江戸の床屋での何気ない会話に急転直下し、遊廓の花魁の話題で落ちるというギャップが笑いを生み出します。期待の裏切りこそが落語の醍醐味です。
Q: 「物日前には尻尾を出す」とはどういう意味ですか?
A: 二重の意味があります。一つ目は「祭日の前に客が増えるので遊女が忙しくなり本性を出す(不機嫌になる)」という遊廓の実情。二つ目は「狐が尻尾を出す(正体を現す)」という文字通りの意味です。この二つの意味を重ねた高度な言葉遊びがオチとなっています。
Q: この噺は長いと聞きましたが、どのくらいですか?
A: 古典落語の中でも特に長編で、完全版を演じると40分以上かかります。そのため現代では前半の歴史部分を短縮して演じられることも多く、演じられる機会自体が少ない貴重な演目です。
Q: この噺は江戸落語ですか?上方落語ですか?
A: 江戸落語の演目です。吉原を舞台にした廓噺の要素と、壮大な歴史物語を組み合わせた独特の構成は、江戸落語の創造性を示す好例です。
名演者による口演
この噺を得意とした・している落語家をご紹介します。
- 古今亭志ん生(五代目) – 昭和の大名人。この長編を見事に語り切り、特に前半の壮大な物語と後半の日常のギャップを絶妙に演じました。
- 三遊亭圓生(六代目) – 人間国宝。格調高い語り口で歴史部分を重厚に描き、オチのギャップをより際立たせる名演で知られました。
- 柳家小三治(十代目) – 人間国宝。この噺でも丁寧な語り口で、妖怪伝説の神秘性と江戸庶民の俗っぽさを見事に対比させます。
- 春風亭一朝(三代目) – 軽妙な語り口で、特に床屋での会話の部分を面白く演じることで知られています。
関連する落語演目
同じく「狐」が登場する古典落語



「歴史・伝説」をテーマにした古典落語


「廓噺」の古典落語



この噺の魅力と現代への示唆
「九尾の狐」は、古典落語の中でも異色の存在です。中国古代の殷王朝から始まり、唐代、平安時代を経て江戸時代に至る壮大な時間軸を持つ物語が、最後は吉原の床屋での何気ない会話で落ちるという、究極のギャップコメディとなっています。
この噺の最大の魅力は、聴衆の期待を見事に裏切る構成にあります。前半の壮大な歴史絵巻を聞いていると、誰もが「これから三浦介義明が九尾の狐と壮絶な戦いを繰り広げるのだろう」と期待します。しかし物語は一転して江戸の床屋での日常会話に転じ、妖怪退治ではなく遊廓の花魁の話題で終わるのです。
「物日前には尻尾を出す」という言葉遊びは、実に巧妙です。狐が尻尾を出す(正体を現す)という文字通りの意味と、祭日の前に客が増えて忙しくなると遊女が本性を出す(不機嫌になる)という遊廓の実情を重ねた、高度な言葉遊びです。妖怪退治という非日常が、遊廓の経営という俗世の話に落ちる対比が絶妙です。
この噺は、落語が持つ「自由な発想」と「ジャンル越境」の精神を体現しています。歴史物語、妖怪譚、人情噺、廓噺という複数のジャンルを一つの演目に詰め込み、しかもそれらを違和感なく融合させる技術は、落語ならではのものです。
現代の視点から見ると、この噺は「前振りと結末のギャップ」を使ったコメディの原型とも言えます。映画やドラマで「壮大な設定から始まって意外な落とし方をする」という手法は、この「九尾の狐」のような落語が先駆けていたのかもしれません。
また、この噺は長編であるため演じられる機会が少なく、聴く機会に恵まれない「幻の名作」とも言える存在です。もし実際の高座や音源で出会うことがあれば、それは貴重な体験となるでしょう。前半の壮大な物語に引き込まれながら、最後のオチで思わず笑ってしまう、その落語ならではの体験をぜひ味わってください。


