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赤穂義士銘々伝 堀部安兵衛(高田馬場駆け付け)講談|あらすじ・見どころを完全解説

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安兵衛高田馬場駆け付け
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赤穂義士銘々伝 堀部安兵衛(高田馬場駆け付け)講談|あらすじ・見どころを完全解説

堀部安兵衛武庸(ほりべ やすべえ たけつね) ─ 講談演題「高田馬場駆け付け」は、赤穂義士銘々伝のなかでも 最も武勇に満ちた一席。元禄七年二月十一日、伯父・菅野六郎左衛門の助太刀のため、当時 中山安兵衛 と名乗っていた一介の浪人が、江戸の町を駆け抜けて高田馬場で十八人斬りの大立ち回りを演じた若き日の物語です。

神田伯山の蔵出し講談

項目 内容
演目名 高田馬場駆け付け(堀部安兵衛)
別題 高田馬場の決闘/十八人斬り/中山安兵衛
ジャンル 講談・赤穂義士銘々伝(武芸物)
主人公 中山安兵衛(後の堀部安兵衛武庸)
舞台 元禄七年(1694年)二月十一日、江戸・高田馬場
見どころ 江戸八丁を一気に駆け抜ける疾走と、馬場での十八人斬り
連続物 赤穂義士銘々伝の一席(独立上演が一般的)

3行でわかるあらすじ

伯父・菅野六郎左衛門が果たし合いを控えていることを酒の最中に知らされた中山安兵衛は、酒席を蹴って江戸の町を疾走する。
高田馬場に駆けつけた時、伯父はすでに多勢に押されて深手を負っていた。
安兵衛は単身で敵方に斬り込み、十八人を瞬く間に斬り伏せ、伯父の仇を晴らして一夜にして江戸中の評判となる。

10行でわかるあらすじと見どころ

時は元禄七年二月十一日、江戸。

越後新発田藩の浪人 中山安兵衛武庸 、当年二十六。剣を直心影流の堀内源左衛門に学び、貧しいながらも一筋に剣の道を歩む若武者であります。

この日、安兵衛は親しい知人と昼酒を酌み交わしておりましたところ、伯父・ 菅野六郎左衛門 (西条藩家臣)の使いの者が血相を変えて飛び込んでくる。

「安兵衛様、菅野様が今刻、 高田馬場 にて村上庄左衛門ら一党と果たし合いの段。多勢に無勢、ご助太刀を願いまする」

安兵衛、酒杯を放り捨て、袴の股立ちを取り、刀の鞘を握りしめて飛び出します。

ここから神田から小石川、目白、高田へとおよそ二里半(約十キロ)の道のりを、ただただ駆けに駆ける。途中、息が上がれば茶屋の水を一杯あおり、すれ違う町人を蹴散らし、女子供を避けながらの疾走。

高田馬場に到着した時、伯父・菅野六郎左衛門は既に深手を負って馬場の片隅に膝をつき、敵方の村上庄左衛門・三郎右衛門兄弟を中心とする十数名がなおも斬りかかろうとしている。

安兵衛、馬場の柵を飛び越え、抜き打ちざまに一閃。

助太刀つかまつる、安兵衛これにあり

そこから始まるのが、講談史上もっとも有名な大立ち回り。直心影流の剛剣が縦横に閃き、敵をなぎ倒し、突き伏せ、馬場の砂に血の華を咲かせる。瞬く間に倒したる敵 十八人、世にいう 「高田馬場の十八人斬り」 の伝説が、ここに生まれたのでございます。

解説

「高田馬場駆け付け」は、赤穂義士銘々伝のなかで 唯一、討ち入り前の若き日の武勇 を描いた異色の一席です。他の銘々伝が義士たちの 「忠」「情」「忍」 を描くのに対し、本席はひたすら若武者の 「勇」 を讃える剛直な物語で、講談の 「武芸物」 系統に位置付けられます。

講談ならではの魅力

最大の見せ場は 「八丁駆け」 と呼ばれる江戸八丁の疾走場面です。講談師は釈台を張扇でとんとんと早打ちし、安兵衛の疾走の足音を表現します。次いで馬場での斬り合いは、 修羅場読みの真骨頂 。一人斬っては「シャーッ」、二人斬っては「ハッ」、三人を相手にするや「ヤァッ、トォッ」と、声と扇でテンポよく敵を倒していく。

口演三十分から一時間に及ぶ長丁場ですが、聴衆は最後まで息を呑むという、講談の 躍動感を味わうための一席 です。

史実と「十八人斬り」の差

史実として、元禄七年二月十一日に高田馬場で果たし合いがあり、中山安兵衛がこれに駆けつけて伯父・菅野六郎左衛門を助太刀したことは事実とされます。ただし 斬った人数は史料により大きく異なり、十八人というのは講談・浪曲による誇張の数字。実際には三人ほどを斬ったというのが現代史学の通説です。

それでも当時の江戸ではたちまち評判となり、安兵衛の名は一夜にして轟きわたります。この武名を聞きつけた赤穂藩士・ 堀部弥兵衛 が娘の婿に望み、安兵衛は中山姓を捨てて 堀部安兵衛武庸 と名乗ることになる。これが後年の四十七士・堀部安兵衛の誕生でございます。

「赤穂義士伝」の中での位置

この一席は、赤穂義士伝のなかでも討ち入りより八年も前の物語であり、安兵衛の武勇を独立して描いた 「義士の青春譚」 とも言える位置付けです。後年の討ち入りでは堀部安兵衛は 裏門隊副将格 として活躍し、四十七士のなかでも屈指の武闘派として知られました。

歌舞伎・浪曲との関係

「高田馬場の決闘」は歌舞伎『加賀見山再岩藤』『高田馬場』をはじめ、浪曲・講談・小説と数多のジャンルで取り上げられた江戸期の人気題材。とくに浪曲では 二代目広沢虎造 の十八番「高田馬場」が戦前戦後を通じて広く親しまれました。

あらすじ

さて、元禄七年二月十一日。江戸の空はぴんと冷え込んだ早春の昼下がり。

神田の一角、小さな酒屋の二階座敷で、一人の若侍が知人の浪人と酒を酌み交わしておりまする。

年の頃二十六、髪は無造作に総髪に結い、月代も伸び放題、着物は粗末な木綿の小袖、されど目には鋭い光、肩幅は広く、腰の刀の差し方は無駄なく堂に入っている。

これぞ越後新発田の浪人、 中山安兵衛武庸 。剣は直心影流堀内源左衛門の高弟、酒は浴びるごとく呑むが乱れぬ、武芸の天才と評判の若者でございます。

知人「安兵衛、まずは一献」

安兵衛「ハハ、ありがたい。今日は格別の旨さよ」

二人で盃を重ねておりましたところ、階下の戸ががらりと開く音。そして「ごめんッ、御免下されい、安兵衛様はおいでかッ」と血相を変えた声。

階段をどたどたと駆け上がってきたるは、伯父・菅野六郎左衛門の若党、長六(ちょうろく)。

長六「安兵衛様ッ、菅野の旦那様が、菅野の旦那様がッ」

安兵衛「長六、落ち着け。伯父御がいかがした」

長六「ハッ、本日刻限を切って、 高田馬場にて村上庄左衛門・三郎右衛門兄弟と果たし合い の段。村上方は助太刀十数人を引き連れ、まこと多勢に無勢、旦那様一人ではおぼつかぬ仕儀。なにとぞお助太刀を、なにとぞ」

安兵衛、聞くなり盃を畳に放り捨て、たちまち顔色変わる。

安兵衛「長六、お前は先に走れ。伯父御に『安兵衛只今駆けつけまする』と伝えよ」

知人「安兵衛、待て、せめて駕籠を呼ぼうぞ」

安兵衛「駕籠を待つ間に伯父御の命が消える。御免」

ぐいと刀を引き寄せ、袴の股立ちを取り、襷代わりに手拭いを口にくわえ、階段を二段三段に飛び降りて表へ躍り出る。

ときに昼八つ(午後二時頃)。

神田の通りを北へ。

筋違橋を駆け抜け、湯島の坂を一気に駆け上がる。

すれ違う町人「あれッ、お武家様、危のうござる」

安兵衛、答えず、ただ走る。

本郷追分から白山下、小石川指ヶ谷、護国寺の参道脇を抜けて、目白台の坂を駆け下る。

「ハッ、ハッ、ハッ」と荒い息。額には汗、口には血の味。胸の中はただ一念、 「伯父御を死なせるな」

途中、茶屋の前を通りかかり、亭主に向かって「水を一杯」と所望。柄杓ごとぐびりと飲み干し、銀を一片投げて再び駆け出す。亭主「お武家様、銀が多うございます!」と呼ぶも振り向かず。

距離にして二里半、時間にしておよそ半刻余。常人なら一刻を超す道のりを、安兵衛は半刻で踏破しました。

ようよう見えてまいりましたるが、 高田馬場

馬場の中央には激しい斬り合いの真っ最中。

中央に立つ老武士、これぞ伯父の 菅野六郎左衛門 。当年五十二、白髪まじりの鬢は乱れ、額からは血が流れ、左足を引きずりながらも刀をかざして敵に対している。

その周囲を取り囲むは、村上兄弟以下、助太刀の者ども併せて十六、七名。

安兵衛、馬場の柵を「えいッ」と一声、ひらりと跳び越える。

助太刀つかまつる、中山安兵衛、これにありィッ

声を聞いた菅野、振り向いて

菅野「お、おお、安兵衛か。よう来てくれた。されどわしはもう……」

安兵衛「伯父御、御自愛召され。あとはこの安兵衛が引き受け申した」

伯父をかばって前に進み出、刀を抜き放つ。

直心影流「位の太刀」、構えはやや高め、両足を肩幅、腰を沈めて呼吸を整える。

村上庄左衛門「うぬ、若造、何者じゃッ」

安兵衛「中山安兵衛武庸ッ。菅野六郎左衛門が甥なりッ」

村上「面白い、まとめて葬ってくれるわッ。皆の者、この若造もろともッ」

「えいッ」「やぁッ」と斬りかかる敵を、安兵衛は半身を引いて躱し、抜き打ちざまに一閃。

最初の一人、肩から胸へ袈裟掛けに斬り下げ、ばさりと倒れる。

二人目、突き出した槍の柄を切り落とし、返す刀で胴を払う。

三人目、横なぎに払って首を飛ばす。

四人目、五人目、六人目 ─ 安兵衛の刀は止まらない。直心影流の剛剣がうなりを上げて、馬場の砂塵をかき立てる。

敵方は浮足立ち、互いに「ぶつかるな、当たるな」と叫びながら逃げ惑う。

そこへ安兵衛は一歩も引かず、 猛然と前へ前へ と踏み込む。「ヤァッ」「トォッ」「コリャッ」と気合とともに刀がうなる。

七人、八人、十人、十二人、十五人 ─ 馬場の上は瞬く間に屍累々。

ついに中心人物・村上庄左衛門との一騎討ち。

村上「う、うぬッ、化け物かッ」

安兵衛「化け物にあらず、武士の名にかけてッ」

刀と刀が火花を散らし、二合三合と打ち合った末、安兵衛の上段からの一刀が、村上の頭上を割った。

弟・三郎右衛門も同じく安兵衛の剣にかかって地に伏し、 村上一党は壊滅

世にいう 「高田馬場の十八人斬り」 であります。

斬り終えて刀を懐紙で拭う安兵衛、そのまま伯父・菅野の元へ駆け寄る。

安兵衛「伯父御、伯父御、ご無事でござるか」

菅野はうっすらと目を開け

菅野「安兵衛、よう来てくれた。これでわしも武門の意地が立った……後は頼んだぞ……」

がっくりと首が垂れる。深手は致命傷であり、菅野六郎左衛門はまもなく息を引き取ったのでございます。

安兵衛、伯父の亡骸を抱きかかえ、肩を震わせて声を殺して泣く。

馬場の砂に血と涙が滲み、夕日が西の空を朱に染めるばかりでありました。

この日の武勇はその夜のうちに江戸中に広まり、 「高田馬場の安兵衛」 といえば知らぬ者なき大評判。やがてこの噂を聞きつけた赤穂浅野家の家臣・ 堀部弥兵衛金丸 が、娘の婿にと望み、安兵衛は中山姓を改めて 堀部安兵衛武庸 と名乗ることとなる。

そしてその八年後、元禄十五年師走十四日、本所松坂町・吉良邸への討ち入り。堀部安兵衛は 裏門隊の副将格 として獅子奮迅の働きを見せ、四十七士の名を青史に刻むのでございます。

すべての源は、あの早春の高田馬場、若き日の 「駆け付け」 にあったのでございました。


講談用語解説

  • 直心影流(じきしんかげりゅう) — 江戸期に流行した剣術の流派。男谷信友・島田虎之助らも修めた実戦的な剣術で、堀内源左衛門は江戸の高弟として名高かった。
  • 股立ちを取る(ももだちをとる) — 袴の脇の開きから手を入れて裾を腰にたくしあげること。走ったり戦ったりする際の動作。
  • 高田馬場(たかだのばば) — 江戸の郊外にあった広大な馬場。馬の調練・果たし合い・的場として用いられた。現在の早稲田大学西側、新宿区西早稲田一帯。
  • 十八人斬り — 講談・浪曲における誇張表現で、安兵衛が一人で十八人を斬り倒したとされる。実際の人数は三人前後とする史学の説が有力。
  • 修羅場読み(しゅらばよみ) — 講談における戦闘場面の語り口。張扇で釈台を叩きながら、急テンポに敵味方の動きを語る技法。
  • 裏門隊 — 吉良邸討ち入りで大石主税(内蔵助の長男)が率いた部隊。表門隊(大石内蔵助率いる)と二手に分かれて屋敷を急襲した。

よくある質問(FAQ)

Q: 中山安兵衛と堀部安兵衛は同一人物ですか?
A: はい、同一人物です。元の姓は中山で、越後新発田藩の浪人でした。高田馬場の決闘で武名を上げた後、赤穂藩士・堀部弥兵衛金丸の娘婿となり、堀部姓を継ぎました。

Q: 高田馬場で実際に何人斬ったのですか?
A: 史料により諸説ありますが、現代史学では三人ほどとするのが通説です。「十八人斬り」は講談・浪曲による誇張であり、事件の評判が江戸中に広まる過程で人数が膨らんだものと考えられます。

Q: 菅野六郎左衛門は安兵衛の何にあたりますか?
A: 講談・伝承では伯父(叔父)とされます。伊予西条松平家の家臣で、村上庄左衛門との何らかの遺恨から果たし合いに至ったと伝えられます。詳細な経緯は史料により異なります。

Q: 高田馬場の決闘はいつ起きたのですか?
A: 元禄七年(1694年)二月十一日と伝えられます。赤穂事件(元禄十四年三月の松の廊下)よりも七年前の出来事であり、安兵衛が赤穂藩士になる以前の若き日の事件です。

Q: 堀部安兵衛は討ち入りでどの役割を果たしましたか?
A: 裏門隊(大石主税率いる)の副将格として参加し、四十七士のなかでも屈指の武闘派として活躍しました。討ち入り後は細川越中守家にお預けとなり、翌年切腹、享年三十四です。

名演者による口演

  • 六代目神田伯山 — 赤穂義士伝を得意とする現代講談界の第一人者。武芸物の大ネタとして「高田馬場」を高座にかけている。

  • 三代目神田松鯉 — 人間国宝。六代目伯山の師匠。武芸物・修羅場読みを伝承してきた大家。

  • 二代目神田山陽 — 昭和の赤穂義士伝の大家。本伝・銘々伝を網羅的に演じた。

  • 浪曲 二代目広沢虎造 — 浪曲版「高田馬場」の名調子で全国的に親しまれた大看板。

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忠臣蔵を題材にした落語

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忠臣蔵と落語の深い関係を解説。赤穂浪士の仇討ちを題材にした古典落語の数々、江戸時代の庶民文化との関わりを詳しく紹介。

この噺の魅力

「高田馬場駆け付け」の魅力は、 「若さと剛剣がもたらす爽快感」 にあります。

赤穂義士伝の多くの一席は、忠と情と忍という、どこか湿った情緒を含んでいます。ところが本席は違う。 走り抜き、斬り抜き、勝ち抜く という、純粋な躍動の物語です。聴いている方は安兵衛と一緒に駆け、安兵衛と一緒に刀を振り、最後には安兵衛と一緒に汗をぬぐう。

講談師の張扇が刻むテンポ、声の張り、間合いの緩急が、この一席を文字通り 「耳のスポーツ」 に変える。義士伝のなかでもっとも生理的に痛快な一席といっても過言ではありません。

そしてもう一つの魅力は、 「血気盛んな若者がやがて忠義の士となる」 という、義士伝全体への伏線としての機能です。本席を聴いた者は、後年の討ち入りで堀部安兵衛が獅子奮迅の働きを見せる場面を、より深い感慨をもって受け止めることができる。 「あの十八人斬りの安兵衛が、八年後にはこのように主君のために死を選ぶのか」 という時の流れの重みが、聴衆の胸に染み入るのです。

伯父を失った悲しみと、自分の武勇への目覚めが交錯するこの夕景は、後年の安兵衛の人生の出発点にして、赤穂義士銘々伝の 「動の名作」 として、いまも全国の高座で語り継がれているのでございます。

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