片棒
3行でわかるあらすじ
けちで有名な赤螺屋吝兵衛が3人の息子に自分の葬式をどう出すかを聞いて跡継ぎを決めようとする。
一郎と次郎は豪華で派手な葬式を提案して怒られるが、三郎はたくわんの樽を棺にする節約葬式を提案する。
担ぎ手の問題で困った三郎に対し、けちべえが「その片棒は俺がかつぐ」と答える荒唐無稽なオチで落とす。
10行でわかるあらすじとオチ
けちで有名な赤螺屋吝兵衛が3人の息子のうち誰に跡を継がせるか決めるため、自分の葬式の出し方を聞く。
長男一郎は日比谷公園を借り切って軍艦マーチを流し、花火を打ち上げるパチンコ屋風の派手な葬式を提案して怒られる。
次男次郎は木遣、神田囃子、手古舞で練り歩き、そろばんを持ったけちべえの人形の山車を出す祭り風葬式を提案して怒られる。
三男三郎は質素で節約した葬式を提案し、白木の棺はもったいないのでたくわんのつけ樽を棺にすると言う。
けちべえは三郎の提案にすっかり乗り気になり、新しい樽はもったいないから古い樽にするよう指示する。
三郎は荒縄を掛けて丸太を通し、前棒は自分が担ぐが後ろを担ぐ人間がいないと困ると言う。
けちべえが「ああ、心配するな、その片棒は俺がかつぐ」と答える。
これは死人であるけちべえ自身が自分の棺の片棒を担ぐという荒唐無稽な発言である。
「片棒」は物を担ぐ棒と「片棒を担ぐ」(共犯・協力)の意味をかけた地口オチとなっている。
極度のけちが最後は自分の葬式の担ぎ手まで節約しようとする滑稽な結末で笑いを誘う。
解説
「片棒」は江戸落語の中でも特異な設定を持つ滑稽噺で、主人公が自分の葬式について論じるという珍しい構成になっている。
赤螺屋吝兵衛(けちべえ)は落語に登場する典型的なけちん坊キャラクターで、その極端なケチぶりが笑いの源泉となっている。
この噺の巧妙さは、3人の息子それぞれの葬式提案が段階的にけちべえの価値観に近づいていく構成にある。
一郎の提案は現代的で派手すぎ、次郎の提案は江戸的だが賑やかすぎ、そして三郎の提案だけがけちべえの心を捉える。
オチの「その片棒は俺がかつぐ」は複数の意味を持つ巧妙な地口で、文字通りの「棺を担ぐ棒」と慣用句の「片棒を担ぐ」(共犯者になる・協力する)を掛けている。
さらに、死人が自分の棺を担ぐという物理的に不可能な状況設定が荒唐無稽さを演出し、けちべえの節約精神が死後にまで及ぶという極端さを表現している。
この噺は単なるけち話を超えて、人間の欲望や価値観の滑稽さを巧みに描いた秀作である。
あらすじ
けちで一筋で一代で身代を築いた赤螺屋吝兵衛(あかにしや・けちべえ)さん。
落ちているものは何でも拾い、くれる物は何でももらう。
道で会った男がけちべえさんをからかい、屁(へ)をあげるという。
けちべえさん両手に屁を入れ家に帰り菜畑の上で手を開け、「ただの風よりましだろう」
三人の息子の誰に跡を継がせるか、けちべえさんの葬式の出し方を聞いて了見を知ろうとする。
まずは長男の一郎の話。
日比谷公園を借り切り、紅白の幕と花輪、入口に呼び込みの音楽、軍艦マーチを流す。
まるでパチンコ屋だ。
一万円の札束を誰にもやらんと抱えたけちべえさんの写真を飾り、棺は鋼鉄製の小判型、出棺は夕方の五時、セスナ機が公園の上を飛び、花火を打ち上げ、「ばんざ~い、ばんざ~い」・・・・こんな調子でけちべえさんから「バカヤロー」と一喝される。
次が次郎の葬式の出し方。
出棺の葬列は木遣を先頭に神田囃子の笛、太鼓で練って歩き、手古舞が続き、手にそろばんを持ったけちべえさんの人形の山車(だし)が出て、その後から衿に「赤螺屋」と入れた半纏(はんてん)を着た店の者が神輿をかつぎ、親戚の総代が弔文を読み上げる。「赤螺屋吝兵衛君、平素粗食に甘んじ、ただ預金額の増加を唯一の楽しみとなせしが、栄養不良の結果、不幸にして病におかすところとなり、あの世高天の人となり、今また山車の人形となる。ああ、人生面白ききかな、また、愉快なり・・・・・」、これもけちべえさんに「バカヤロ-」と叱られる。
最後は三郎の出番だ。
馬鹿げた金のかかる葬式ではなく、しみったれに、質素にやるという。
チベットのように死体を軒に吊るして鳥につつかせ、自然に消滅させるのが一番いいが、これでは世間体が悪いので、やはりお棺に入れる。
白木の棺はもったいないので、たくわんのつけ樽で間に合わす。
けちべえさんは、この話にすっかり乗り気になってきた。
けちべえ 「新らしいのはもったいないから、古い樽にしておきなよ」
三郎 「荒縄を掛け丸太を通し、人足を雇ってかつぐのは金がかかるから前棒は自分が担ぎます・・が・・、後ろを担ぐ人間が・・・」
けちべえ 「ああ、心配するな、その片棒は俺がかつぐ」
落語用語解説
この噺をより深く理解するための用語解説です。
- 赤螺屋(あかにしや) – 赤螺(あかにし)という巻貝を扱う商家の屋号。江戸時代、貝類は庶民の食材として流通していました。
- 吝兵衛(けちべえ) – 「けち」と「兵衛」を組み合わせた名前。落語ではケチな人物を象徴する典型的な名前として使われます。
- たくわん樽 – たくあん漬けを作るための大きな樽。木製で円筒形をしており、人が入る大きさのものもありました。
- 片棒を担ぐ – ①物を運ぶ棒の片方を担ぐこと、②共犯者になる・協力するという慣用句。この噺では二重の意味が掛けられています。
- 白木の棺 – 塗装や装飾を施していない白木で作られた棺。江戸時代の一般的な棺で、質素ではあるものの立派な葬送具でした。
- 木遣(きやり) – 鳶職などが歌う労働歌で、祭りや葬列でも歌われました。リズミカルで力強い歌い方が特徴です。
- 手古舞(てこまい) – 祭礼の行列で男装の女性が踊りながら練り歩く伝統芸能。華やかで祭りを盛り上げる存在でした。
- 山車(だし) – 祭礼で曳き回す装飾された車。人形や飾り物を載せて町内を練り歩きます。
よくある質問(FAQ)
Q: 自分の葬式について話すことは縁起が悪くないのですか?
A: 江戸時代には「生前葬」や「逆修(ぎゃくしゅ)」といって、生きているうちに自分の葬儀を考えることは必ずしも忌避されませんでした。特に富裕層や商人は、後継者選びや遺産分配のために生前から準備することが一般的でした。この噺は、そうした風習を滑稽に誇張したものです。
Q: たくわん樽を棺にするというのは実際にあったのですか?
A: 実際には聞きませんが、江戸時代の貧しい家では質素な葬儀が行われ、立派な棺を用意できないこともありました。この噺は、けちべえの極端な節約精神を表現するための誇張表現です。落語ならではのフィクションとして楽しむべき部分です。
Q: 「片棒を担ぐ」というオチの意味を詳しく教えてください
A: このオチは三重の意味が込められています。①文字通り「棺を担ぐ棒の片方」、②慣用句の「片棒を担ぐ」(共犯・協力する)、③死人が自分の棺を担ぐという物理的に不可能な荒唐無稽さ。けちべえは節約のために人足代を惜しみ、死後の自分まで労働力として計算に入れているという極端な倹約精神が笑いを誘います。
Q: 長男と次男の提案はなぜあんなに派手なのですか?
A: これは対比の技法です。一郎の現代的でパチンコ屋風の派手な葬式、次郎の江戸的で祭り風の賑やかな葬式を先に提示することで、三郎の質素な提案との落差を強調しています。段階的にけちべえの価値観に近づいていく構成が、最後のオチを効果的にしているのです。
Q: この噺は江戸落語ですか?上方落語ですか?
A: 「片棒」は江戸落語の演目です。けちん坊を主人公にした滑稽噺の系統に属し、江戸っ子の言葉遣いと地口オチが特徴的です。
名演者による口演
この噺を得意とした・している落語家をご紹介します。
- 古今亭志ん朝(三代目) – 軽妙洒脱な語り口で、けちべえのケチぶりと息子たちとのやり取りを見事に演じ分けました。
- 柳家小三治(十代目) – 人間国宝。この噺でも独特の間と観察眼で、けちべえの心理を繊細に描き出します。
- 春風亭一朝(三代目) – テンポの良い語り口で、三人の息子それぞれの個性を明確に描き分ける名演が評価されています。
- 柳家喬太郎 – 現代的な解釈を加えながらも、古典の良さを残した演出で若い世代にも人気です。
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この噺の魅力と現代への示唆
「片棒」は、ケチという人間の普遍的な性質を極端に誇張して描くことで、深い笑いと洞察を生み出す名作です。
けちべえの節約精神は、単なる倹約ではなく、もはや病的なレベルに達しています。屁まで拾って帰り、自分の葬式の担ぎ手まで節約しようとする。この極端さは荒唐無稽でありながら、「お金を使いたくない」という人間の欲望を鋭く風刺しています。
興味深いのは、三人の息子の提案が段階的に変化していく構成です。一郎の現代的な派手さ、次郎の江戸的な賑やかさ、そして三郎の質素さ。この対比によって、けちべえの価値観が浮き彫りになり、最後のオチが効果的に機能するのです。
「その片棒は俺がかつぐ」という一言には、死後も労働力として自分を計算に入れるという驚くべき発想が込められています。これは単なる言葉遊びではなく、けちべえの人生観そのものを象徴しています。生きている間だけでなく、死後まで節約を続けようとする執念は、滑稽でありながらも、ある種の哲学的な深みすら感じさせます。
現代においても、節約や倹約は美徳とされる一方で、行き過ぎれば本末転倒になることがあります。この噺は、バランスの大切さを笑いを通じて教えてくれているのかもしれません。
実際の高座では、演者によってけちべえの性格描写が異なり、それぞれの解釈を楽しむことができます。機会があれば、ぜひ生の落語会でこの噺をお楽しみください。


