紙入れ
3行でわかるあらすじ
小間物屋の新吉が商家の奥さんから不倫の誘いの手紙をもらい、迷いながらも訪問する。
酒を飲まされて密会するが、旦那が急に帰ってきて慌てて逃げ、紙入れ(財布)を忘れてしまう。
心配した新吉が翌朝訪問すると、旦那は自分の妻の浮気にまったく気づいていないという皮肉なオチ。
10行でわかるあらすじとオチ
小間物屋の新吉が得意先の商家の奥さんから「今夜は旦那が帰らないから遊びに来て」という手紙をもらう。
世話になっている旦那には悪い気もしたが、迷った末に奥さんの家に出かけて行く。
奥さんは酒を勧め、今日は泊まってくれと言うが、新吉は断ろうとする。
すると奥さんは「どうしても帰るなら、留守の間に新吉が言い寄ってきたと旦那に言う」と脅す。
困った新吉は酒をがぶ飲みして悪酔いし、隣の間に敷いてある布団に入る。
すぐ後から長襦袢姿になった奥さんも布団へ入って来て、さあこれからという時になる。
急に表の戸を叩く音がして、帰らないはずの旦那が帰って来てしまう。
パニックに陥った新吉を尻目に、奥さんは落ち着いて新吉を裏口から逃がす。
家に戻った新吉は、旦那にも見せたことがある紙入れを忘れ、中に奥さんからの手紙が入っていることに気づく。
翌朝恐る恐る旦那の家に行くと、旦那は「自分の女房を取られるような野郎だよ。まさかそこまでは気がつかねえだろう」と言う。
解説
「紙入れ」は江戸古典落語の中でも色恋をテーマにした代表的な演目の一つです。紙入れとは現在の財布のことで、江戸時代の男性が懐に入れて持ち歩いていた必需品でした。
この落語の最大の見どころは、夫が自分の妻の不倫にまったく気づいていないという皮肉な構造にあります。新吉は紙入れを忘れたことで証拠が残り、バレるのではないかと心配しますが、当の夫は「自分の女房を取られるような野郎」と他人事のように語ります。これは「灯台下暗し」の典型例で、身近すぎて見えないものを表現した秀逸なオチです。
また、奥さんのキャラクターも注目に値します。新吉をうまく誘惑し、旦那が帰ってきた時も冷静に対処する手慣れた様子から、これが初めての浮気ではないことが暗示されています。一方で新吉は慌てふためき、紙入れを忘れるという失敗をする対照的な描写が笑いを誘います。
江戸時代の商人文化における人間関係の複雑さや、男女の機微を巧みに描いた人情噺としても評価の高い作品です。
あらすじ
小間物屋で働く新吉、得意先の商家のご新造さんから今夜は旦那が帰らないから遊びに来てくれと手紙をもらう。
ひいきにしてくれ、世話になっている旦那には悪い気もしたが、迷った末に出かけて行く。
新造は酒を勧め、今日は泊ってくれという。
新吉は断るが、新造はどうしても帰るというなら、留守の間に新吉が言い寄ってきたと旦那に言うとおどす。
困ってがぶ飲みして悪酔した新吉は隣の間に敷いてある布団に入る。
すぐ後から長襦袢(じゅばん)姿になった新造さんもふとんへ入って来た。
さあ、これからという時、表の戸を叩く音、帰らぬはずの旦那が帰って来たのだ。
パニックに陥った新吉を尻目に、新造さんは落ち着いて新吉を裏口から逃がす。
家に駆け戻った新吉、悪いことはできないものだ、旦那に気づかれはしなかったかと反省と心配しているうちに、紙入れを忘れたことに気づく。
旦那にも見せたことがある紙入れで、中には新造からもらった手紙が入っているのだ。
夜逃げでもしようかなんて思ったりして、まんじりともせず夜を明かす。
翌朝、居ても立ってもいられず、恐る恐ると旦那の家に行く。
長火鉢の前で煙草をふかしていた旦那、新吉が浮かぬ顔をしているのであれこれと聞く。
女のことだと分かり、若いやつは羨ましいなんて言ってたが、これが「主ある花」、人の持ち物と聞き、「人の女房と枯れ木の枝は登りつめたが命がけ」と説教を始める。
新吉も昨夜の顛末を喋り出し、手紙のはさんである紙入れを忘れた、そこの旦那に見つかっただろうかと心配そうに言う。
そこへ現れた当のご新造さん。
新造 「おはよう新さん、気が小さいのねえ。
それは大丈夫と思うわ。
だって旦那の留守に若い人を引っ張り込んで楽しもうとするくらいだから、そういう所に抜かりないと思いますよ。
新さんを逃がした後に回りを見て、紙入れがあればきっと旦那に分からないようにしまってありますよ。ねえあなた」
旦那 「そうりゃあそうだ。
よしんば見つかったところで、自分の女房を取られるような野郎だよ。まさかそこまでは気がつかねえだろう」
落語用語解説
この噺をより深く理解するための用語解説です。
- 紙入れ(かみいれ) – 江戸時代の財布のこと。紙幣や手紙、小物などを入れる携帯用の袋で、懐に入れて持ち歩きました。現代の財布に相当し、革製や布製のものがあり、持ち主を特定する重要な品でした。
- 小間物屋(こまものや) – 櫛、簪(かんざし)、紅、白粉(おしろい)、手拭いなど、女性用の小物雑貨を扱う商人。家々を回って商品を売る行商形態が多く、商家の奥様方と親しくなる機会が多い職業でした。
- ご新造(ごしんぞう) – 商家や武家の若い奥様を指す敬称。「新造」は本来は遊女の最高位を指しましたが、一般的には若い既婚女性への敬称として使われました。
- 長襦袢(ながじゅばん) – 着物の下に着る肌着。長襦袢姿とは、外出着を脱いで寛いだ状態を表し、この噺では奥さんが誘惑のために準備した姿を示しています。
- 主ある花 – 既に持ち主(配偶者)のいる女性のこと。「主のある花に手を出すな」という教訓的な言い回しで使われました。
- 人の女房と枯れ木の枝は登りつめたが命がけ – 江戸時代の諺。人妻との関係や危険な行為は、登り詰めると命の危険があるという警告の意味。実際、江戸時代は姦通罪が厳しく罰せられました。
- 灯台下暗し – 身近なものほど気づきにくいという諺。この噺では、夫が自分の妻の浮気に気づかないことを表現しています。
よくある質問(FAQ)
Q: 「紙入れ」はいつ頃の時代設定ですか?
A: 江戸時代後期の町人社会が舞台です。小間物屋という職業や商家の生活様式、紙入れという小道具から、江戸後期の文化文政期(1804-1830年頃)の雰囲気が描かれています。
Q: 江戸時代の不倫は実際どのように扱われていましたか?
A: 江戸時代の姦通罪は非常に重く、特に武士階級では死罪もあり得ました。町人でも「密通」は重罪で、公になれば厳しい処罰を受けました。この噺では、そうした緊張感が新吉の恐怖心として描かれています。
Q: 小間物屋が商家の奥様と親しくなるのはよくあったのですか?
A: はい、小間物屋は女性向けの商品を扱う行商人で、各家を定期的に訪問し、奥様方と親しくなることが多くありました。そのため、色恋沙汰の題材として落語によく登場します。
Q: このオチの面白さはどこにありますか?
A: 夫が自分の妻の不倫にまったく気づいていないという「灯台下暗し」の皮肉が最大の面白さです。新吉は紙入れの証拠を心配して恐々と訪問しますが、当の夫は「自分の女房を取られるような野郎」と他人事のように語り、目の前で妻が堂々と昨夜の行為を説明しているのに気づかないという構造が秀逸です。
Q: 現代でも演じられていますか?
A: はい、現在も多くの落語家が演じています。ただし、不倫というデリケートなテーマのため、演者によって演出に工夫が加えられることが多い演目です。YouTube等で「紙入れ 落語」で検索すると実際の高座を視聴できます。
名演者による口演
この噺を得意とした・している落語家をご紹介します。
- 古今亭志ん朝(三代目) – 江戸落語の名人として知られ、色恋噺を特に得意としました。新吉の慌てぶりと奥さんの妖艶さ、そして旦那の鈍感さを見事に演じ分けた口演で知られています。
- 柳家小三治(十代目) – 人間国宝。この噺での微妙な心理描写と間の取り方が絶妙で、新吉の罪悪感と恐怖、そして夫の無自覚さを丁寧に描き出します。
- 春風亭一之輔 – 現代の人気落語家。古典をベースにしながらも現代的な感覚を加えた演出で若い世代にも人気があります。
関連する落語演目
同じく「色恋・不倫」をテーマにした古典落語



商人と奥様の関係を描いた落語


「灯台下暗し」的なオチの落語


夫婦の機微を描いた落語


この噺の魅力と現代への示唆
「紙入れ」の最大の魅力は、三者三様の人物描写の見事さにあります。新吉の若さゆえの罪悪感と恐怖心、奥さんの手慣れた大胆さと冷静さ、そして旦那の善良だが鈍感な性格が、それぞれ鮮やかに描かれています。
特に注目すべきは、奥さんのキャラクターです。新吉を脅迫して引き止め、旦那が帰ってきても冷静に対処し、翌朝は堂々と旦那の前で昨夜の出来事を説明する―この手慣れた様子から、彼女にとってこれが初めてではないことが暗示されています。江戸時代の女性像の一面を描いた興味深い設定です。
また「灯台下暗し」という普遍的なテーマも現代に通じます。身近すぎて見えないもの、疑いの目を向けないがゆえに見過ごしてしまうもの―SNSやスマートフォンの時代になっても、人間の認知の盲点は変わりません。
この噺は単なる笑い話ではなく、人間関係の複雑さ、見えているものと見えていないものの皮肉な対比を描いた、心理劇としての深みを持つ作品です。落語という芸能が、こうした人間の本質を軽妙に描き出す力を持っていることを改めて感じさせてくれます。
実際の高座では、演者によって新吉の純真さが強調されたり、奥さんの妖艶さが際立ったりと、様々な解釈が楽しめます。ぜひ複数の落語家の口演を聴き比べてみてください。


