一目上り
3行でわかるあらすじ
八五郎が掛け軸を褒めて教養を示そうとするが、隠居の「賛(三)」大家の「詩(四)」医者の「悟(五)」と数字が一つずつ上がる。
八五郎が数字の法則に気づいて「今度は最初から六と言おう」と友達の辰さんの家に向かう。
辰さんの掛け軸で「結構な六だな」と言うと「なあに、七福神の宝船だ」と期待が裏切られる。
10行でわかるあらすじとオチ
八五郎が新年の挨拶で隠居の家を訪れ、掛け軸の雪折れ笹について教わり「結構な賛(三)ですな」と褒めることを学ぶ。
隠居に「そうすれば世間の見る目が変わり八公から八つぁん、八五郎殿、八五郎様と呼ばれるようになる」と諭される。
大家の家で掛け軸を褒めようとするが「これは詩(四)だ」と言われ、医者の家でも「これは悟(五)だ」と言われる。
八五郎は賛(三)→詩(四)→悟(五)と数字が一つずつ上がっていることに気づく。
「今度五と言えば六と言われるだろうから、はじめから六と言おう」と友達の辰さんの家に向かう。
辰さんの家の汚い掛け軸には舟に大勢の人が乗っている絵が描かれている。
辰さんが「ながき夜の とおの眠りの みなめざめ 波のり舟の 音のよきかな」と読む。
八五郎が得意げに「結構な六だな」と言う。
すると辰さんが「なあに、七福神の宝船だ」と答える。
八五郎の期待通りに「六」ではなく「七福神」で、数字の法則が通用しない結末となる。
解説
「一目上り」は八五郎の学習能力と浅知恵を描いた古典落語の代表作です。タイトルの「一目上り」は数字が一つずつ上がっていくことと、八五郎が世間的に「一目置かれる」ようになりたいという二重の意味を持っています。
この噺の面白さは、八五郎が賛(三)→詩(四)→悟(五)という数字の規則性を発見し、それを利用して先回りしようとする知恵の働かせ方にあります。しかし最後に「七福神」という予想外の答えで期待が裏切られる構造が「期待オチ」の典型例となっています。
各場面で登場する掛け軸の内容も意味深く、雪折れ笹の「しなはるるだけは堪えよ雪の竹」は忍耐の教え、「近江の鷺は見がたく 遠樹の烏は見易し」は善悪の判断について、一休禅師の悟は仏教的な教えと、それぞれ教養的な内容になっています。八五郎の知識欲と虚栄心を描きつつ、最後は期待を裏切る展開で笑いを誘う秀作です。
あらすじ
八五郎が新年の挨拶で隠居の家へ行く。
床の間の掛け軸に「雪折れ笹」が描かれていて、何か文字が書かれている。
隠居に読んでもらうと、「しなはるるだけは堪(こた)えよ雪の竹」で、雪の重みでしなって曲がっていても春になれば元どおりの笹になる。
人間も辛抱、我慢が肝心と言うことだと教えられ、八つぁんは思わず「音羽屋!」と褒めた。
隠居は、「”結構な賛(三)ですな”と褒めなさい。そうすればお前に対する世間の見る目が変わり、八公と言われているのが八つぁんになり、八つぁんが八五郎殿になり、それが八五郎様と呼ばれるようになる」と諭される。
いつも「ガラッ八」と呼ぶ大家を、掛け軸を褒めて見返してやろうと意気込んで訪ねる。
掛け軸は字ばかりなので、大家に読んでもらう。「近江(きんこう)の鷺は見がたく 遠樹の烏は見易し」で、善行は目立たないが、悪事はすぐに露見するという意味と教わる。
八つぁん「結構な賛だなあ」と、得意げに褒めると、「いいや、これは根岸の亀田鵬斎先生の詩(四)だ」と、肩すかしを食った。
まだ、あきらめない八つぁんは、医者の所へ乗り込む。「八五郎君ですか」と迎えた医者に掛け軸を見せてもらう。「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売り、汝五尺(ごしゃく)の身体を売って、一切衆生の煩悩をやすむ。
柳は緑、花は紅(くれない)の色いろ香。池の面(も)に月は夜な夜な通えども水も濁さず影も止(とど)めず」だな。「結構な詩ですな」に、「これは一休禅師の悟(五)だ」で、また空振りだが八つぁんは一目づつ上がっていることに気づき、「今度五と言えば六と言われるだろうから、はじめから六と言おう」と、なるほどいい所に着眼して友達の辰さんの家に行く。
汚い掛け軸には舟に大勢の人が乗っている絵が描かれている。
その上に何やら書かれている。
辰さんは上から読んでも、下から読んでも同じのめでたい文だと言って、「ながき夜の とおの眠りの みなめざめ 波のり舟の 音のよきかな」と読んだ。
八つぁん 「結構な六だな」
辰さん 「なあに、七福神の宝船だ」
落語用語解説
一目上り(ひとめあがり)
数字が一つずつ上がっていくことを指すと同時に、「一目置かれる」という社会的評価が上がることの意味も持つ言葉。この噺では八五郎が賛(三)→詩(四)→悟(五)と数字が上がっていくことに気づき、次は六だろうと予測するが七福神で裏切られる。タイトル自体が二重の意味を持つ巧妙な構造となっている。
掛け軸(かけじく)
床の間に掛けて飾る書画。江戸時代には教養の象徴であり、特に正月には縁起の良い掛け軸を飾る習慣があった。この噺では雪折れ笹、詩、一休禅師の悟、七福神の宝船など様々な掛け軸が登場し、それぞれに教養的な意味が込められている。掛け軸を褒めることは教養を示す行為とされていた。
賛(さん)
絵画や書に添えられた讃辞や詩文のこと。読みが「さん」で数字の「三」と同音であることから、この噺では言葉遊びの要素となっている。隠居の家の雪折れ笹の掛け軸に書かれた「しなはるるだけは堪えよ雪の竹」が賛の例として登場し、八五郎はこれを「結構な賛ですな」と褒めることを学ぶ。
詩(し)
漢詩や和歌などの詩文。読みが「し」で数字の「四」と同音であることから言葉遊びの要素となる。大家の家の掛け軸「近江の鷺は見がたく 遠樹の烏は見易し」が亀田鵬斎の詩として登場する。善行は目立たないが悪事はすぐに露見するという意味を持つ教訓的な内容となっている。
悟(ご)
仏教における悟りのこと。読みが「ご」で数字の「五」と同音であることから言葉遊びの要素となる。医者の家では一休禅師の悟が掛け軸として登場し、「柳は緑、花は紅」という有名な禅語が引用される。八五郎は賛(三)→詩(四)→悟(五)と数字が一つずつ上がっていることに気づく。
七福神(しちふくじん)
福をもたらす七人の神様。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七神を指す。正月の縁起物として宝船に乗った姿が描かれることが多い。この噺のオチでは八五郎が「六」を期待して友達の家を訪れるが「七福神」と言われ、予想が外れる結末となる。期待オチの典型例として機能している。
宝船(たからぶね)
七福神が乗る縁起の良い船。正月の縁起物として描かれ、「ながき夜の とおの眠りの みなめざめ 波のり舟の 音のよきかな」という回文の和歌が添えられることが多い。この和歌は上から読んでも下から読んでも同じになる仕掛けで、正月の枕の下に敷くと良い夢が見られると信じられていた。
よくある質問(FAQ)
なぜ八五郎は掛け軸を褒めようとしたのですか?
八五郎は隠居から「掛け軸を”結構な賛ですな”と褒めれば、世間の見る目が変わり、八公から八つぁん、八五郎殿、八五郎様と呼ばれるようになる」と諭されました。普段「ガラッ八」と呼ばれている八五郎は、教養を示すことで社会的な評価を上げたいという虚栄心から、掛け軸を褒めて回ることにしました。江戸時代の教養主義と身分意識を反映した設定となっています。
「賛」「詩」「悟」の数字の法則はなぜ生まれたのですか?
これは偶然の一致です。八五郎が隠居の家で「賛(さん=三)」、大家の家で「詩(し=四)」、医者の家で「悟(ご=五)」と聞いたことで、数字が一つずつ上がっていく法則があると勘違いしました。実際にはそれぞれ独立した掛け軸の内容でしたが、八五郎の浅知恵が「次は六だろう」という誤った予測を生み出しました。この勘違いが噺の核心となる笑いのポイントです。
なぜオチで「七福神」だったのですか?
八五郎が「今度は最初から六と言おう」と先回りしたところ、友達の辰さんの家の掛け軸は「七福神の宝船」でした。八五郎は「六」を期待していたのに「七」と言われて期待が裏切られる「期待オチ」の構造になっています。さらに正月の縁起物として七福神が登場することで、新年の挨拶という噺の設定とも合致する巧妙な構成となっています。
この噺の教訓は何ですか?
「一目上り」の教訓は、浅知恵で物事を判断する危険性です。八五郎は表面的な法則性(数字が上がること)を見つけて先回りしようとしますが、実際には各掛け軸は独立した意味を持っており、法則性は偶然の一致に過ぎませんでした。本質を理解せずに見せかけだけで教養を装おうとする虚栄心が、最後に裏目に出る様子が描かれています。また「急がば回れ」という教訓にも通じます。
名演者による口演
五代目古今亭志ん生
志ん生の「一目上り」は、八五郎のキャラクターを生き生きと描き出すスタイルが特徴です。隠居から教えられて得意げに掛け軸を褒めて回る八五郎の様子が軽妙に表現され、賛→詩→悟と数字が上がっていくことに気づく場面では、八五郎の浅知恵が巧みに描かれています。オチの「七福神」も自然な流れで落とし、聴衆を笑わせます。
八代目桂文楽
文楽の口演は細部まで緻密に計算されており、「一目上り」でも各場面の掛け軸の内容を丁寧に説明しています。雪折れ笹、亀田鵬斎の詩、一休禅師の悟と、それぞれの掛け軸が持つ教養的な意味を詳細に語り、八五郎が表面的にしか理解していないことを浮き彫りにします。オチへの伏線も効果的に張られており、期待オチの構造が明確に表現されています。
十代目柳家小三治
小三治の「一目上り」は、八五郎の虚栄心と知識欲を深く掘り下げる演出が特徴です。「ガラッ八」と呼ばれている八五郎が「八五郎様」と呼ばれたいという願望、教養を示して見返したいという心情が立体的に描かれています。数字の法則に気づいて「これはいい所に着眼した」と得意げになる場面では、八五郎の浅知恵が温かみのあるユーモアとして表現されています。
三代目桂米朝
米朝の口演は、江戸時代の教養文化を豊かに描き出すことで知られます。「一目上り」でも、掛け軸という文化的な背景を詳細に説明し、当時の社会における教養の重要性を聴衆に伝えています。各掛け軸の意味を丁寧に解説し、八五郎がその本質を理解せずに表面的に褒めているだけという対比が明確に描かれます。上方落語版としての演じ方も魅力的です。
関連する落語演目
- 転失気 – 言葉の意味を取り違えて騒動になる構造が共通
- 粗忽長屋 – 勘違いから生まれる滑稽な展開
- 寿限無 – 言葉遊びと期待オチの要素が共通
- 初天神 – 親子の会話と期待の裏切りが描かれる
- 道具屋 – 教養の見せかけと実態のギャップが共通
この噺の魅力と現代への示唆
「一目上り」の最大の魅力は、八五郎の浅知恵と虚栄心を温かく描いた人間ドラマにあります。「ガラッ八」と呼ばれている八五郎が「八五郎様」と呼ばれたいという願望は、誰もが持つ承認欲求の表れで、現代人にも共感できる心情です。隠居から「掛け軸を褒めれば世間の見る目が変わる」と教えられ、得意げに実践しようとする姿は微笑ましくもあり、切なくもあります。
この噺は表面的な知識と本質的な理解の違いを巧みに描いています。八五郎は掛け軸を「結構な賛ですな」と褒めることを覚えますが、賛・詩・悟それぞれの意味や違いは理解していません。雪折れ笹の「しなはるるだけは堪えよ雪の竹」という忍耐の教え、亀田鵬斎の「近江の鷺は見がたく 遠樹の烏は見易し」という善悪の教え、一休禅師の「柳は緑、花は紅」という禅の悟りなど、各掛け軸には深い意味がありますが、八五郎はそれを理解せずに表面的に褒めているだけです。
賛(三)→詩(四)→悟(五)という数字の法則に気づく場面が、この噺の核心です。八五郎は「今度は最初から六と言おう」と先回りしますが、これは本質を理解せずに表面的なパターンだけを見出した浅知恵の典型例です。実際には各掛け軸は独立した意味を持っており、数字の一致は偶然に過ぎません。しかし八五郎はそこに法則性があると勘違いし、得意げに「六」と言おうとします。
オチの「七福神の宝船」は、期待オチの傑作です。八五郎が「六」を期待して友達の辰さんの家を訪れると、掛け軸は「七福神」でした。八五郎の予測は見事に外れ、浅知恵が裏目に出る結末となります。さらに正月の縁起物として七福神が登場することで、新年の挨拶という噺の設定とも合致する巧妙な構成になっています。「ながき夜の とおの眠りの みなめざめ 波のり舟の 音のよきかな」という回文の和歌も、言葉遊びの要素として機能しています。
現代社会においても、この噺は多くの示唆を与えてくれます。まず、表面的な知識と本質的な理解の違いです。現代でも資格や学歴など、見せかけだけの教養を装おうとする人は多く存在します。八五郎のように表面的なパターンだけを見出して本質を理解しない姿勢は、現代の「マニュアル人間」や「ハウツー依存」にも通じる問題です。
また、承認欲求と虚栄心という普遍的なテーマも重要です。八五郎が「八公」から「八五郎様」と呼ばれたいという願望は、現代のSNSでの「いいね」獲得競争や、ブランド品による見栄の張り合いと本質的に同じです。他者からの評価を気にして、本質を理解せずに見せかけだけを装う行動は、時代を超えて繰り返される人間の性です。
浅知恵の危険性も見逃せません。八五郎が数字の法則を見出して先回りしようとする姿勢は、現代のデータ分析やパターン認識にも通じます。しかし表面的なパターンだけを見て本質を理解しないと、八五郎のように予測が外れてしまいます。ビッグデータ時代の現代でも、数字やパターンに惑わされず本質を見極める重要性を、この噺は教えてくれます。
「一目上り」は、浅知恵と虚栄心を温かく描いた古典落語の傑作です。賛(三)→詩(四)→悟(五)→七福神という数字の展開、期待オチの構造、そして人間の本質を突いた教訓が三位一体となった名作として、今も多くの落語家によって演じ続けられています。


