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【古典落語】茶漬えんま あらすじ・オチ・解説 | 神も仏もない神仏たち

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話芸の殿堂-古典落語-茶漬えんま
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茶漬えんま

3行でわかるあらすじ

闻魔大王がキリストと釈迦での接待で胃を壊し、茶漬で口直ししていると亡者の留さんが闻魔の庁への出勤に付き合う。
留さんは構列で極楽へ行くが、踊って血の池に落ちてしまい、釈迦とキリストが助けに来る。
しかし釈迦の自己中心的な発言で皆落ちてしまい、『神も仏もないもんか』と嘘く武切なオチで終わる。

10行でわかるあらすじとオチ

闻魔大王がキリストと釈迦の対接で胃を壊し、茶漬で口直し中。
亡者の留さんが闻魔の庁への出勤に付き合い、キリストと釈迦に会わせてもらう。
闻魔の庁では浄玻璃の鏡ではなく書類審査に変わっている。
留さんの悪行をチェックし、極楽と地獄どちらでも行ける状態。
留さんは闻魔の言葉を疑いながらも極楽行きを選択。
極楽で釈迦に出会い、クモの糸で地獄の亡者を釣っていると聞く。
留さんが地獄の繁栄ぶりを聞いて踊り始め、足を踏み外す。
釈迦とキリストが縄梯子で助けに降りるが、古い縄が切れて一緒に落下。
三人でクモの糸で上がろうとするが、釈迦が留さんを蟹れと命令。
『神も仏もないもんか』と釈迦が嘘く武切なオチ。

解説

「茶漬えんま」は、上方落語の中でも特に異色でスケールの大きな長編作品です。闻魔、キリスト、釈迦という三大宗教の最高指導者たちを登場人物とした大胆な設定は、江戸時代の庶民の宗教観や価値観を反映したもので、当時の社会情勢を物語る貴重な資料でもあります。

物語の構成は、現世から死後の世界へと舞台が移り変わり、闻魔の庁、極楽、地獄といった仏教世界観を背景にしながら、現代的な要素(書類審査、ゴルフ場、レジャーセンターなど)を織り交ぜたユニークな世界観を構築しています。これは江戸時代の落語作家の創造力と柔軟性を示すものです。

最大の見どころは、最後のオチである釈迦の『神も仏もないもんか』という台詞です。これは、一見怒炖のように聞こえますが、実は神仏でさえも自己中心的になってしまう人間的な弱さを表現した、深い哲学的メッセージが込められた絶妙な結末です。この作品は、宗教的な指導者であっても結局は人間であることを誓った、江戸落語の人間観を代表する名作として評価されています。

あらすじ

ある朝、閻魔大王が家で茶漬を食べていると娑婆から来た亡者の留さんが訪ねて来る。
留さん 「何で閻魔はんが茶漬食べてなはんのん?」

閻魔 「昨日、キリストんとこで寄り合いがあってな、人はパンのみにて生きるにあらず、肉食え、肉食えちゅうて、ぎょ~さん安い肉の脂身の多いとこ食わしよって。だいたいあいつ、酒癖があんまりよおないさかい、ええ加減で立ち去って、帰りにお釈迦さんとこ寄って本場のインドカレーで口直ししよう思うたら、脂ぎょうさんの辛いだけのカレー食わしよってからに、いまだに胸がむかついているんや」、閻魔はんは留さんに閻魔の庁へ出勤するので近所にいるキリストと釈迦に会わせてやると言う。

留さん 「これから閻魔の庁でお裁きを?あの浄玻璃の鏡とか使こて?」

閻魔 「そんなんは昔の話や、この頃はみな自己申告の書類審査だけや。
皆がな極楽行くかと思たらそおでないで。この頃は地獄も開けて来て面白いとこも増えて来たるし、やっぱり自分の点数見て、こら、ちょっと極楽無理かいなぁ、思たりしてな・・・」

二人はゴチャゴチャ、ゴチャゴチャ言いながら、閻魔の庁に到着。
閻魔の庁長の知り合いというので閻魔部閻魔課長が自ら留さんの聞き取りをして書類を作成する。
本籍、名前、学歴・・・、閻魔課長の手元には閻魔帖があって留さんのこれまで行状が書かれている。

課長 「面白いことしてなはる”子守りしてて、その子どもの乳ボーロを盗って食べた”、これ、割合と点数引かれまっせ。”鳥居の絵書いたぁるとこでオシッコした”、 これもだいぶ減点ですな。
このぐらいでよろしいやろ。そうですなあんたの点数なら地獄、極楽どっちでも行けますが・・・」

留さん 「閻魔はんは地獄のほうが面白いなんて言うてはったけど、ひょっとしたら閻魔はん、この頃、地獄行きが少ないさかい、うまいこと騙して地獄に行かしたろてな魂胆かも・・・やっぱり極楽行きでお願いしまっさ」、ということで留さんは閻魔課長に見送られて「極楽行き」のドアをくぐった。

階段を上ると七宝の大楼閣でその下には蓮池が広がっている。
その下には地獄の血の池があるようだ。
キョロキョロしながら歩いていたら誰かの足を踏んでしまって謝ると、「・・・極楽ではあなたは私で、私はあなただから謝ってはいけない・・・」と、今度はポカリと頭を叩かれた。
叩いたのも私だから怒ってはいけないということのようだ。
蓮池でのんびりと釣りをしている男がいる。

留さん 「釣れますか?餌はなんでんねん?」

釣り人 「餌も針も使いません。このクモの糸だけでこの下の地獄の亡者どもを釣っておるのじゃ」

留さん 「そならあんたお釈迦さんですな。わて閻魔はんの知り合いでんねん」

釣り人(釈迦) 「ほぉ、閻君の知り合いか。残りもんじゃがこの夕べのカレー食わんか?」

留さん 「遠慮させてもらいますわ。けどそんな細い糸で釣れまんのか?」

釈迦 「クモの糸は七、八分とこまで上がって来ると自然と切れるでな、はじめの頃はドンドン、ドンドン上がって来よった亡者どもも、この頃は諦めて上がって来んよおになったなぁ」

留さん 「そんな根性の悪いことしなはんな。亡者が気の毒だっせ」

釈迦 「そないことありゃせん。
近頃では地獄も開けてきよった。
地獄へ行くよおなやつは、皆金をたくさんに持っているでなぁ。血の池では屋形舟を出して鬼芸者を上げて遊んだり、鬼どもを騙して土地をみなただ同然で買収して、針の山はゴルフ場になったし、熱湯地獄は温泉旅館にしたり、もうじきに総合レジャーセンターなんて物まで完成するそうや」

留さん 「ホンに皆ドンチャン騒ぎして呑めや唄えで楽しそうだんなぁ。・・・♪ヨッ、コラコラ、コラコラ。ヨッ、ヨイトヨイト、コラコラコラコラ」

釈迦 「こら!踊ってはいかん。危ない!・・・」、留さんは足を踏み外して落ちて行って血の池の中にドボーンとはまってしまった。
お釈迦さん、閻魔はんの知り合いをこのまま放っておくわけにも行かずに、どうしたものかとうろたえていると、そこへ通り掛かった、

キリスト 「ワタシ縄梯子アリマス。 オリーブ山カラ昇天スルトキニ使イマシタ縄梯子デス。チョット 古イデスガ、ソレデ二人デ降リマショウ」と、二人で留さんを助けに血の池に降り始めたが、何せ何千年前の古びた縄梯子で真ん中ぐらいに来たあたりで二人の重みでプッツリと切れて、二人も血の池へ真っ逆さま。

溺れかけているところを血の池の船頭に助けられて、見ると舟の中には留さんもいる。
舟の真上にはクモの糸がぶら下がっている。

釈迦 「おぉ、ちょうどよろしいわ。キリストはん、このクモの糸で上がりまひょ」

キリスト 「これ七、八分とこ上がったら切れまんねやろ?」

釈迦 「いや、それは亡者の罪の重みで切れますのでな、我々は大丈夫じゃ。留さんは待ってておくれ」と、二人でクモの糸を上り始めた。

留さん 「わたいも何やかんや言うてもやっぱし極楽のほうが性が合いそぉやさかい、 ボチボチ上がりまっさかい」、留さんが上って来るのに気が付いて、

釈迦 「留はん、あんた上がったらあかん、亡者のあんた上がったら切れる・・・キリストはん足でボーンと蹴りなはれ」、何と慈悲も情けもない神仏も恐れない言い様だ。

だが、「留さんを足で蹴りなはれ」という自己中が一番の罪業だ。
法の下の平等で、この言葉発した途端にクモの糸はぷっつんと切れてしまって、三人ともドボーンと血の池へ逆戻り。

釈迦 「あ~あ、神も仏もないもんか」


落語用語解説

この噺をより深く理解するための用語解説です。

  • 閻魔大王(えんまだいおう) – 仏教において死者を裁く冥界の王。地蔵菩薩の化身とも言われ、死者の生前の行いを裁定する役目を持ちます。
  • 浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ) – 閻魔大王が持つとされる鏡で、死者の生前の行いをすべて映し出すという伝説の道具。
  • 血の池地獄(ちのいけじごく) – 仏教の八大地獄の一つ。生前に殺生や出産で血を流した者が落ちるとされる地獄。
  • 蜘蛛の糸(くものいと) – 芥川龍之介の小説でも有名な、地獄から極楽へ登る細い糸。仏教説話が元になっています。
  • 七宝(しっぽう) – 仏教で貴重とされる七つの宝物。金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙を指します。
  • 針の山(はりのやま) – 地獄の責め苦の一つ。罪人が裸足で登らされる無数の針が生えた山。

よくある質問(FAQ)

Q: なぜ閻魔、キリスト、釈迦という異なる宗教の指導者が一緒に登場するのですか?
A: これは江戸時代の庶民の宗教観を反映しています。当時の日本人は神仏習合の考えが根強く、様々な宗教を柔軟に受け入れていました。落語ではこうした宗教的寛容さをユーモラスに表現しています。

Q: 地獄がゴルフ場やレジャーセンターになるという設定は江戸時代にあったのですか?
A: いいえ、これは演者による現代的なアレンジです。原作では別の例えが使われていましたが、時代に合わせて聴衆に分かりやすい形に改変されています。

Q: 「神も仏もないもんか」というオチの意味は?
A: これは二重の意味があります。一つは「助けてくれる神仏がいない」という嘆き、もう一つは「神仏である自分が困っている」という自虐的な意味です。宗教的権威への風刺も含まれています。

Q: この噺は実際に演じられることが多いですか?
A: 長編落語のため、寄席では滅多に演じられません。独演会や落語会の特別プログラムで取り上げられることがあります。

Q: 上方落語と江戸落語で違いはありますか?
A: 「茶漬えんま」は主に上方で演じられる噺です。江戸では同様のテーマを扱った「地獄八景亡者戯」という別の噺があります。

名演者による口演

この噺を得意とした・している落語家をご紹介します。

  • 桂米朝(三代目) – 上方落語四天王の一人。人間国宝。長編落語の名手として知られ、宗教的な題材も品格を保ちながらユーモラスに演じました。
  • 桂枝雀(二代目) – 独特の身振り手振りと表情で、神仏のキャラクターを生き生きと演じ分けました。特に血の池に落ちる場面の演技が圧巻。
  • 桂春団治(三代目) – 爆笑王の異名を持つ。テンポの良い語り口で長編を飽きさせずに演じる技量を持っていました。
  • 桂文枝(六代目) – 現代的なアレンジを加えながら、若い世代にも楽しめる形で演じています。

関連する落語演目

死後の世界を描いた古典落語

怪談・超自然的要素を含む古典落語

宗教・寺社が舞台の古典落語

この噺の魅力と現代への示唆

「茶漬えんま」は、宗教的権威を風刺しながらも、人間の本質的な弱さや欲望を描いた作品として現代にも通じる普遍性を持っています。閻魔、キリスト、釈迦という絶対的な存在でさえも、人間的な感情や弱さを持つという設定は、権威への健全な批判精神を表しています。

特に興味深いのは、地獄が商業化されレジャー施設になるという発想です。これは現代の資本主義社会における聖なるものの世俗化を予見したような内容で、江戸時代の落語作家の想像力の豊かさを示しています。

また、留さんという一般庶民が神仏と対等に渡り合う姿は、身分制度が厳格だった江戸時代において、落語という芸能が持つ自由な精神を表現しています。笑いを通じて社会の矛盾や権威の欺瞞を暴く、落語の社会批評的な側面がよく表れた作品です。

最後の「神も仏もないもんか」というオチは、単なる笑い話では終わらない深い含蓄があります。これは宗教への不信ではなく、むしろ人間の弱さを認めた上での救いの可能性を示唆しているとも解釈できます。

実際の高座では、演者によって各宗教指導者のキャラクター設定が異なり、それぞれの解釈が楽しめます。長編のため全編を聴く機会は少ないですが、機会があればぜひ全編を通して聴いてみてください。


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