赤穂浪士 大石妻子別れ(山科の別れ・二度目の清書)講談|あらすじ・見どころを完全解説
大石妻子別れ(おおいしさいしわかれ) ─ 別題「山科の別れ」または講談演題「二度目の清書(にどめのせいしょ)」とも呼ばれるこの一席は、赤穂浪士本伝の中で 最も哀切な家族の別れ を描きます。円山会議で討入を決した大石内蔵助が、山科閑居で脱落者の名を削り連判状を書き直す作業と並行して、累を及ぼさぬため妻りくを離縁し、幼い子たちを郷里の豊岡へ帰す、覚悟の場面を描きます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 演目名 | 二度目の清書(にどめのせいしょ) |
| 別題 | 大石妻子別れ/山科別れ/りくとの別れ |
| ジャンル | 講談・御記録物(赤穂義士伝本伝) |
| 主人公 | 大石内蔵助良雄・妻りく |
| 舞台 | 元禄十五年秋、京都山科閑居 |
| 見どころ | 連判状の書き直しと妻子との別離 |
| 連続物 | 赤穂義士伝 本伝の第六席 |
赤穂義士伝 本伝の流れ
赤穂義士伝本伝は大長編。本席は 「大石妻子別れ(二度目の清書)」 の一席です。
- 松の廊下 — 元禄十四年の刃傷事件
- 浅野内匠頭 切腹 — 田村邸での無念の最期
- 赤穂城明け渡し — 大石の無血開城
- 大石東下り 垣見五郎兵衛 — 神奈川宿の名場面
- 円山会議 — 討入正式決議
- 大石妻子別れ ← 本席 — 山科の別れと二度目の清書
- 南部坂雪の別れ — 瑤泉院への暇乞い
- 討入装束 本所勢揃い — 三か所の集結
- 吉良邸討ち入り — 修羅場読みの真骨頂
- 泉岳寺引き揚げ — 主君墓前での焼香
- 切腹(四家お預け) — 四十六士の最期
3行でわかるあらすじ
円山会議の後、大石内蔵助は山科閑居に戻り、脱落者の名を削って連判状を二度目に清書する。
同時に、累が妻子に及ばぬよう、妻りくを離縁して郷里但馬豊岡の石束家へ帰すことを決意する。
長男主税は十五歳ながら討入に加わることを願い出、大石はこれを許す。りくと三人の幼子は山科を後にし、夫婦は永遠の別れを交わす。
10行でわかるあらすじと見どころ
円山会議で討入を正式に決した大石内蔵助は、山科の閑居に戻って二つの重い仕事を果たす。
一つは 連判状の二度目の清書。一度目の連判状は前年の段階で同志百二十余名の名を連ねていたが、一年の間に家族の事情・生活の困窮・決意の揺らぎなどで脱落した者の名を、大石は一人ずつ丁寧に削っていく。墨で消すのではなく、 新たに真っ白な紙に、残る者の名のみを清書し直す。これが「二度目の清書」と呼ばれる所以である。
もう一つは 妻子との別れ。大石の妻りくは但馬豊岡の石束毎公(つねきみ)の娘で、内蔵助との間に四男一女を儲けていた。討入後は一家が連座して処罰される恐れがあったため、大石は累を及ぼさぬために離縁という形式を取り、りくと三人の幼子を郷里豊岡に送り返すことを決める。
ただし長男の 大石主税良金 は、元服間もない十五歳ながら父と共に討入に加わることを願い出、大石はこれを許す。
秋も深まる頃、山科の閑居では、静かな離別の朝が来る。
りく「殿、どうかご武運を」
内蔵助「そなたは達者で、子らを頼む」
多くを語らず、されど万感の一礼。りくは次男吉千代、三男大三郎、娘くうを連れて、泣きながら籠に乗り、山科を後にする。
残された内蔵助と主税の親子は、連判状を前に無言のまま、ただ静かに手を合わせる。
解説
「二度目の清書」は、赤穂義士伝の中で 討入の裏側にある家族の犠牲 を正面から描く稀有な一席です。派手な立ち回りも、壮大な合戦もありません。あるのはただ、紙の上で名を削ぐ筆の音と、愛する者を送り出す朝の静けさだけです。
講談ならではの魅力
この一席は、 「語らぬ場面で語る」 講談の真骨頂です。大石とりくの夫婦の別れは、歌舞伎のように大見得を切る場面ではありません。講談師は、墨をする音、筆を走らせる音、籠が動き出す軋み、木々のざわめき、そういった背景の音まで想像させるような 抑えた語り で聴かせます。
りくという女性
大石の妻りくは、但馬国豊岡藩の家老 石束毎公 の娘で、大石家に嫁いでから二十余年、四男一女を儲けました。赤穂改易後の苦しい生活、夫の大事業を支えた聡明な女性です。離縁後は郷里に戻り、豊岡で子らを育て、内蔵助の切腹を聞いて深く悲しんだと伝えられます。
後年、彼女は 香林院(こうりんいん) と称して尼となり、夫と息子の菩提を弔いながら余生を送りました。
大石主税という少年
長男の主税良金は、元禄十五年の討入当時、数え年十五歳。元服したばかりの少年でしたが、父と共に討入に加わることを強く願い、許されました。討入当日は 裏門隊の大将 として父の表門隊に対応する重責を担います。この「親子で討入」は、赤穂義士伝屈指の涙を誘う要素となります。
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』九段目との関係
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』九段目「山科閑居の場」は、大星由良助(大石)の山科閑居を舞台にした有名な場面ですが、内容は加古川本蔵・戸無瀬・小浪の物語であり、史実の大石家族の別れとは直接関係しません。講談の「二度目の清書」は、史実に近い形で 大石家本人の妻子別れ を描く点で、歌舞伎とは別の情感を持ちます。
あらすじ
さて、所変わって京都山科。
元禄十五年の秋、山科の里は柿の実が色づき、朝晩には霜の気配が漂うようになっております。
大石内蔵助の閑居は、表向きは浪人の隠居所、裏では赤穂義士の指令本部。昼は人目を避けて静まり返り、夜になると一人二人と同志が忍んでまいります。
円山会議を済ませた大石、この日は机に向かい、 連判状 を広げております。
一度目の連判状には、百二十余名の名がぎっしりと連なっておりました。されどこの一年の間に、家の事情、親の病、妻の嘆願、生活の困窮、様々な事由で 脱落した者 が少なくない。
大石、それらの名を一人ずつ目で追い、しばし瞑目。
「この者には妻子があった。この者は老母を抱えておった。この者は……」
脱落を責めようとはなさらぬ。むしろ、残れなかった者の苦衷を察し、一礼して名を外す。
新しい紙を広げ、墨を摺り、筆を取って一人ずつ 清書 していく。残る者の名、本当に共に血を流す覚悟を定めた者の名を、一画一画、丹念に記す。
これが 「二度目の清書」 の由来でございます。
筆を置いた時、窓の外は既に夕暮れ。
廊下で足音、妻りくが茶を運んでまいります。歳は三十七、小柄ながら芯の強そうな女性。但馬豊岡石束家の娘であります。
りく「殿、お疲れさまでございます」
内蔵助、振り向いて静かに微笑む。されど、その眼差しは既に何かを決めておりまする。
内蔵助「りく、折り入って話がある。そこへ座ってくれ」
りく、茶を置き、畳に手をついて座る。
内蔵助「近く、江戸へ下る。戻ることは、おそらくない」
りく「……存じております」
内蔵助「討入の後、残された者は連座の憂き目に遭おう。妻子にまで累が及ぶことになる。それを防ぐには、 事前に離縁する よりほかない」
りく、肩がかすかに震える。されど涙はこぼさぬ。
内蔵助「近日中に、豊岡のご実家へ戻っていただきたい。吉千代、大三郎、くうの三人はそなたが連れて行くがよい」
りく「……主税は、いかがなさいますか」
内蔵助「主税は……十五にして既に 義に殉ずる覚悟 を決めておる。父と共に討入に加わりたいと申した。わしは、許そうと思う」
りくの目から、ついに大粒の涙が一筋こぼれる。それでも声は振り絞るように、
りく「ご立派な決意、母として誇りに思いまする。どうか、どうかお二人とも、ご無事に本懐を」
内蔵助「りく。二十余年、連れ添うてまいった。至らぬ夫であった。許してくれ」
りく「 至らぬなどと。殿と連れ添えたこと、りくは幸せでございました 」
二人、言葉少なに、万感を交わす。
やがて障子の向こうで、子らの声がする。吉千代、大三郎、そしてまだ幼いくうが、母を呼んでござる。
りく、涙を拭い、毅然として立ち上がる。
りく「では、子らの支度を。殿、お達者で」
内蔵助「そなたも、達者で」
それだけ。それだけの別れ。武家の夫婦に余計な言葉はいらぬ。
数日後、山科の里を籠が一挺、京の都へ向かって静かに下ってまいります。籠の中にはりくと三人の子、後ろには供の者がわずか数名。
門前に立って見送る大石内蔵助と主税。親子二人、籠が見えなくなるまで、微動だにせず頭を下げておりまする。
やがて籠が消えた頃、主税が涙を拭って父を見上げる。
主税「父上……母上は、お強い方でございました」
内蔵助「ああ、 武家の母として、一点の曇りもない別れであった 」
親子は閑居に戻り、書き終えたばかりの連判状を前に、並んで静かに手を合わせる。
「殿、あと三月(みつき)の辛抱にござる」
山科の秋は深まり、やがて初雪が降り、赤穂義士の物語は 最後の章 に入ってゆくのでございます。
講談用語解説
- 連判状(れんぱんじょう) — 同志の名を連ね血判を記した誓約書。赤穂では複数回作成され、「二度目の清書」はそのうちの重要な書き直しを指す。
- 山科閑居(やましなかんきょ) — 大石内蔵助が赤穂城明け渡し後に移り住んだ京都山科の隠居所。表向きは浪人、裏では義士の指令本部。
- 離縁(りえん) — 正式に婚姻を解消すること。江戸期の武家では、夫の不祥事が妻子に累を及ぼすのを防ぐため、事前に形式上の離縁を行うことがあった。
- 連座(れんざ) — 罪人の親族が同じ罪で罰されること。江戸期の武家に広く適用された。
- 元服(げんぷく) — 武家の男子が成人と認められる儀式。十三〜十五歳頃に行われた。大石主税はこの年に元服を済ませたばかりであった。
- 香林院(こうりんいん) — 大石りくが出家した後の法名。豊岡に戻った後、尼となり夫と子の菩提を弔った。
- 石束家(いしづかけ) — 但馬国豊岡藩の家老職を務めた家。りくの実家。
よくある質問(FAQ)
Q: なぜ「二度目の清書」と呼ばれるのですか?
A: 連判状は元禄十四年の段階で一度目が作られ、その後に脱落者が出たため、円山会議の後に二度目の書き直しが行われました。墨で消すのではなく、白紙に残る者の名のみを新たに清書したため、「二度目の清書」と呼ばれます。
Q: 大石りくはその後どうなったのですか?
A: 豊岡の実家に戻り、子らを育てながら夫と息子の切腹を聞きました。後に出家して香林院と名乗り、余生を菩提を弔いながら過ごしたと伝えられます。京都市山科区の岩屋寺には、りくの墓も残されています。
Q: 大石主税は本当に十五歳で討入に加わったのですか?
A: はい。元禄十五年十二月の討入当時、大石主税良金は数え年十五歳でした。裏門隊の大将を務め、討入後は松平隠岐守家にお預けとなり、翌年二月に切腹しました。
Q: 吉千代・大三郎・くうはどうなったのですか?
A: 吉千代は後に仏門に入りました。大三郎は、後年浅野本家に召し出され、大石家を再興して広島藩士となりました。娘くうは後に他家に嫁いだと伝えられます。連座の累は妻子に及ばず、大石の事前離縁の判断が功を奏しました。
名演者による口演
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六代目神田伯山 — 赤穂義士伝本伝を現代に蘇らせた第一人者。二度目の清書の情感を抑えた語り口で読む。
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三代目神田松鯉 — 人間国宝。大石内蔵助の覚悟とりくの毅然たる姿を重厚に描く大家。
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二代目神田山陽 — 昭和の赤穂義士伝の名人。家族別れの情を深く読んだ。
関連する演目
赤穂義士伝 本伝の前後
- 円山会議 — 前席、京都円山での討入正式決議
- 南部坂雪の別れ — 討入前夜、瑤泉院への最後の別れ
- 討入装束 本所勢揃い — 討入当日、本所での集結
赤穂義士伝 銘々伝
- 堀部弥兵衛駆け付け — 七十七歳の老義士・弥兵衛の討入参加
- 菅谷半之丞 — 母との別れを演じる孝と忠の葛藤
忠臣蔵を題材にした落語

この噺の魅力
「二度目の清書」の魅力は、 「大義のために家族を犠牲にする痛み」 を、余計な装飾なしに描き切る点にあります。
討入は忠義の大業ですが、その裏には必ず家族の犠牲があります。大石のように妻を離縁し子を遠ざけ、自分と息子の命を差し出す。これは英雄譚というより、むしろ 静かな悲劇 です。
講談師はこの一席を、決して派手には読みません。涙を強要する演出もしません。ただ、連判状を書き直す筆の音、りくの一礼、籠を見送る親子の沈黙、それらを淡々と積み重ねることで、聴き手の胸に深い感情を沈めていきます。
そしてもう一つ注目したいのは、 りくという女性の強さ です。彼女は泣き喚くことも、夫を引き止めることもしません。「ご立派な決意、母として誇りに思いまする」と夫と息子を送り出す。この凛とした別れ方は、武家の妻の矜持を体現しています。
赤穂義士伝の中には四十七人の義士の名があります。されどその陰には、数十人の妻、百人以上の子、数百人の家族がいた。「二度目の清書」はその 陰の人々への鎮魂 とも読めるのでございます。


