滑稽清水
3行でわかるあらすじ
按摩の沢の市が妻の不倫を疑い、清水観音に目が見えるように祈願する。
満願の日に目が開いて仕返しができると喜ぶが、不倫現場を目撃してしまう。
しかし沢の市は「よその夫婦は仲がいい」と勘違いして終わる皮肉なオチ。
10行でわかるあらすじとオチ
按摩の沢の市の家に徳兵衛がやって来て、妻のお里が馬の助と不倫していると告げる。
沢の市は最初は信じないが、だんだん疑心暗鬼になり真実を確かめたくなる。
目が悪いため仕返しができないと嘆き、清水観音に目が開くよう祈願を始める。
一方、お里と馬の助は沢の市の行動を怪しみ、後をつけて清水観音まで来る。
沢の市が「目を開けて仕返しをさせてください」と祈っているのを聞いて慌てる。
お里は「あの人の目が開かないように」と逆の祈願をして三人の祈願合戦が始まる。
満願の日に観音様は沢の市の目を開けてくれて、彼は大喜びで仕返しができると叫ぶ。
目が見えるようになった沢の市が周りを見渡すと、端で二人連れが祈っている。
その二人連れは妻のお里と不倫相手の馬の助だったが、沢の市は気づかない。
沢の市は「よその夫婦は仲がいい」と感心して終わる皮肉なオチとなる。
解説
「滑稽清水」は江戸落語の中でも特に皮肉な結末で知られる人情噺の傑作です。清水寺の観音様への信仰をテーマにしながら、人間の愚かさと哀愁を巧みに描いています。主人公の沢の市は按摩という設定で、当時の障害者の社会的立場も反映されています。
この噺の最大の特徴は、主人公が求めていたものを手に入れても、肝心の目的を果たせないという二重の皮肉にあります。沢の市は「目が見えれば真実がわかり、仕返しができる」と考えますが、実際に目が見えるようになっても、妻の不倫現場を目撃しながら気づかないという結末です。これは「目が見える」ことと「真実を見抜く」ことの違いを表現した深いテーマといえます。
また、三人の祈願合戦という設定も秀逸で、同じ神仏に正反対の願いをかける滑稽さが描かれています。観音様が沢の市の願いを叶えたのは「道徳的に正しい」からという語り手の解釈も、聞き手に考えさせる要素となっています。現代でも夫婦関係や信頼の問題として共感を呼ぶ、時代を超えた普遍性を持つ作品です。
あらすじ
按摩の沢の市の家に徳兵衛さんがやって来る。
徳兵衛 「お里さんは留守かいな?」
沢の市 「今、風呂に行ってますがな」
徳兵衛 「留守ならちょうどよかった。お前の耳に入れておきたいことがあんねけどな。・・・やっぱり止めとこか」
沢の市 「何でんねん、今さら止められたら気になってしょうがおまへんがな」
徳兵衛 「そうか、そならはっきり言うてしまおう。お里はんがなぁ、男を作ってる、間男しとるちゅう話聞いたんや」
沢の市 「そんなアホな、そんな冗談・・・、うちの嬶(かかあ)が間男て、そんな馬鹿なことおますかいな」
徳兵衛 「しかし、"町内で知らぬは亭主ばかりなり"てなことも言うがな」
沢の市 「ほな、お里が間男してる相手は誰でんねん?さぁ、誰でんねん」
徳兵衛 「言いにくい話やが・・・、お前と仲のええ、馬の助や」
沢の市 「もうこれで嘘やと分かった。馬公とわたし、兄弟の契り結んでまんねん。♪"親の血を引く兄弟い~より~も"・・・固い絆で結ばれてますのんや」
徳兵衛 「お前がそう思てんねやったらそれでえぇ。ほな、わしこれで帰るさかい、くれぐれも用心しい・・・何かあったらわしのとこへ相談に来いや」
一人になって沢の市、お里さんはなかなか帰って来ないし、仏の徳兵衛さんが冗談で間男話をするはずもないと、だんだん冷静になったのか疑心暗鬼がつのって来たのか、ついには「馬鹿にしやがって、目が悪い人の目え盗んでお里のやつ間男しやがって・・・」という結論に達した。
この目さえ開いてたらすぐに仕返しがでけんのにと、清水の観音さんへ目開き祈願の日参を始めた。
一方のお里さん、亭主が毎日、どこへ行くとも言わずに出掛けて行くのが気になって来た。
馬の助に、
お里 「あんたとわてのことがうちのんの耳にでも入ったんやないやろか。すまんけどな、今行ったとこやさかい、二人であと付けて行って、何しに行ってるのか調べに行こ」
馬の助 「そんなん、もう恐お~て・・・、もう帰らしてもらう」と、逃げ腰なのを引っ張って沢の市の後を追って行ったのが清水の観音。
沢の市 「目を開けてください、目を開けて仕返しをさしてください」と、一生懸命に拝んでいる。
馬の助 「あぁ、えらいこっちゃ、目が開いたらどなんしょ・・・」と、うろたえるばかり。
お里 「こっちも"あの人の目がどおぞ開かんようにしとくなはれ"ってお願いするしかないがな」、これから毎日、三人の祈願合戦が始まった。
さあ、いよいよ満願の日、やっぱり観音さんは沢の市にご利益を授ける方が道徳的、世間体もいいと考えたのか。
いや満願の日が早く来ただけなのだろう。
観音さんは沢の市の目を開けてくれた。
沢の市 「おぉ~っ! 開いた開いた目が開きよった。
見える、見える! ありがとうございます。これで二人に仕返ができます」 と、ぐるりと回りを見渡すと、端の方で二人連れ(お里と馬の助)が一生懸命拝んでいる。
沢の市 「あぁ、よその夫婦は仲がええなあ」
さらに詳しく知りたい方へ
落語用語解説
この噺をより深く理解するための用語解説です。
- 按摩(あんま) – 江戸時代の医療従事者の一つで、指圧やマッサージで生計を立てる職業。視覚障害者が多く従事していました。当時は「座頭」とも呼ばれ、社会的地位は低かったものの、必要不可欠な職業として認識されていました。
- 清水観音(きよみずかんのん) – 清水寺に祀られている観音菩薩のこと。江戸時代には庶民の信仰を集め、特に病気平癒や願い事成就の祈願で知られていました。東京の清水観音堂(上野)を指す場合もあります。
- 満願(まんがん) – 願掛けの日数が満了すること。一般的には21日間や100日間など、決められた期間を連続して祈願し続けることを指します。最終日を「満願の日」と呼び、願いが叶うとされました。
- 間男(まおとこ) – 妻のある女性と密通する男性のこと。江戸時代の道徳観では重大な罪とされ、発覚すると様々な罰を受けました。落語では定番のテーマの一つです。
- 幇間(ほうかん) – 太鼓持ちとも呼ばれ、宴席で座を盛り上げる職業的な遊び人。この噺では「一八」として登場します。
- 新町(しんまち) – 大阪の代表的な遊郭があった地域。江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大遊郭の一つでした。
- 日参(にっさん) – 毎日欠かさず寺社に参詣すること。願掛けのために行われることが多く、この噺では沢の市が目が開くことを祈願して清水観音に日参します。
- 胴巻き(どうまき) – 腹に巻きつけて金銭を隠し持つための布製の袋。江戸時代、盗難防止のために使われました。
よくある質問(FAQ)
Q: この噺の「滑稽(こっけい)」という題名にはどんな意味が込められていますか?
A: 「滑稽」とは「おかしくて笑えること」という意味ですが、この噺では皮肉な意味が込められています。沢の市が苦労して目を開けてもらったのに、肝心の真実が見えないという「滑稽な」結末を表現しています。単なる笑い話ではなく、人間の愚かさを描いた深いテーマを持つ作品です。
Q: なぜ観音様は沢の市の目を開けたのに、真実を見抜けないようにしたのですか?
A: これは落語の妙味です。観音様は「目が見えるように」という願いは叶えましたが、「真実を見抜く心の目」まで与えたわけではありません。この対比によって、「物理的に見える」ことと「本質を理解する」ことの違いを表現しています。
Q: 三人の祈願合戦というのは実際にあり得る話ですか?
A: 創作ですが、江戸時代の庶民信仰を反映した設定です。当時は神仏に様々な願いを掛ける風習が一般的で、中には相反する願いが同時に掛けられることもあったでしょう。この噺はその矛盾を滑稽に描いています。
Q: この噺は江戸落語ですか、上方落語ですか?
A: 江戸落語の演目です。清水観音(東京・上野の清水観音堂)が舞台となっており、江戸の地理や文化を背景にしています。ただし、上方落語でも演じられることがあります。
Q: 現代でも演じられていますか?
A: はい、現在も多くの落語家が高座にかけています。夫婦関係や信頼の問題は時代を超えた普遍的なテーマであり、現代の聴衆にも共感を呼ぶ作品です。ただし、按摩や障害者に関する表現については、演者によって配慮がなされることもあります。
名演者による口演
この噺を得意とした・している落語家をご紹介します。
- 古今亭志ん生(五代目) – 昭和の大名人。この噺でも人間の哀愁と滑稽さを見事に表現し、沢の市の純朴さと愚かさを愛情たっぷりに演じました。特に最後のオチの間が絶妙でした。
- 古今亭志ん朝(三代目) – 志ん生の息子で、父の芸風を継承しながらも独自の美学を確立。この噺では沢の市の真摯な祈りと、皮肉な結末のコントラストを際立たせる演出が印象的です。
- 柳家小三治 – 現代の名人。人間観察の深さと、間の取り方の巧みさで知られます。この噺でも沢の市の心情を丁寧に描き、単なる笑い話ではなく人間ドラマとして演じます。
- 三遊亭圓生(六代目) – 人間国宝。格調高い芸風ながら、この噺の持つ皮肉と哀愁を深く表現し、聞き手に強い印象を残しました。
関連する落語演目
同じく「夫婦関係・疑心暗鬼」がテーマの古典落語



「勘違い・思い違い」の古典落語



「観音様・寺社への祈願」を扱った古典落語



同じく「按摩」が登場する古典落語


この噺の魅力と現代への示唆
「滑稽清水」のオチ「あぁ、よその夫婦は仲がええなあ」という一言には、深い皮肉と哀愁が込められています。沢の市は長い祈願の末にようやく目が見えるようになりましたが、真実を見抜く「心の目」は開かないままでした。
この噺が現代に投げかける問いは重要です。「見えること」と「理解すること」は別物である、という真理です。現代社会でも、SNSやニュースで様々な情報が「見える」ようになりましたが、その本質を理解できているでしょうか。むしろ情報過多の中で、真実を見抜くことがより難しくなっているのかもしれません。
また、疑心暗鬼に陥った夫の姿は、現代の夫婦関係にも通じるものがあります。一度疑い始めると、すべてが疑わしく見えてしまう。しかし実際には、目の前の真実さえ見えなくなってしまう──。この心理描写は時代を超えて普遍的です。
お里と馬の助の不倫が事実なのか、それとも徳兵衛の告げ口が間違いだったのかは、最後まで明言されません。この曖昧さこそが、この噺の奥深さを増しています。もしかすると、二人は本当に夫婦仲良く祈願に来ただけだったのかもしれない──そう考えると、沢の市の疑心暗鬼がすべての原因だったという解釈も成り立ちます。
「滑稽清水」は、笑いの中に人間の業(ごう)と哀しみを描いた、江戸落語の傑作です。生の高座で聴くと、この皮肉な結末がより一層心に響くでしょう。機会があれば、ぜひ実際の落語会でお楽しみください。


